2023年10月20日金曜日

期待感だけ

とある歌にこういうフレーズがある。


「私 遠い夢は待てなかった」


夢を追っている青年との最後の逢瀬、とも読み取れる印象的なフレーズだ。



そしてそれは、その夢の現実化を待っていた女の愛想を尽かした(または飽きた)フレーズとも取れる。

そして現実は、男も女も文字通り「遠い夢は待てない」人々ばかりなのだ。

#この歌がリリースされるまでのポップスの状況を振り返ると特に。



本シリーズはまさに、当時見ていた自分は「いずれ東宝のヒーロー物をここで確立できるはずで、それは東映や円谷とも違う、特撮が純粋に楽しめる巨大ロボ物」

という淡い淡い、それは今思うと感傷的なくらい甘い夢を見ていたように思う。

し、川北紘一をはじめとした特技スタッフや主要スタッフ陣も、「東映とは違うヒーロー物シリーズの確立」を、このコナミが抑えてくれた(はずの)三年間で何とか実現できるかもしれない、と思っていたのだろう。


自分の事だけで言えば、当時の自分はなんだか現実を受け入れられない、まるでドラえもんのように常に地面から足が数ミリくらい浮いてるような、

それでいて、自分にとって受け入れられる世界をなんとなしに探して足掻いていた時期ではあった。

ビデオゲームも、古いポップスも、プロレスも、そしてこの特撮ヒーローも。

全てはその時々のムーブメントにそれなりに乗っかりながらも、しかし周辺の事情がまた受け入れられずに弾き飛んでしまうことの繰り返しで。

創作物や見世物を足掛かりに、なんとかこの、創作物よりもっと疎ましい現実を堪えて生きていけないものか。 そんな風に考えていたようである。

せめてオタクみたいに、情報と知識の蓄積だけで満足出来ればよかったのだが、自分の性向がそれを許さなくて、それぞれに一応どっぷり浸かってみては

しかしパターンを感じたり、周辺状況の鬱陶しさに辟易してはそれらから遠のいていく始末で、それゆえ自分はオタクにはなれなかったし、今もなれない。


特撮ヒーローの世界も、ギンガマンで出戻ってハリケンジャーでもう飽きのピークが出た頃、何か新しいものを、熱を上げて観ていられるもの「かもしれない」ものとしてやって来たのが超星神グランセイザーではあった。

実際第一話からセイザーXの最終回まで、真面目に録画して追いかけ続け、ジャスティライザーの時にはガラにもなく玩具を買ってまで・・・ そこまでしていたこのシリーズ。

自分が本シリーズに今でも後ろ髪引かれながらも、特撮ヒーローの世界から完全にドロップアウトした理由で最も大きなものは、キザなこと言えば「疎ましいと思っていたはずの現実のほうが面白いと思うようになった」

からで。

やがて自分でも創作をかじる様になったら、もう「単なる受け身側」で居る事で良しとならなくなったわけで。

別に他人にお見せするものではなく、あくまで自分の為に創作しているだけに過ぎないが。


創作物や見世物で飽き足りてしまった結果、殆ど顧みなくなったのと、

現実を楽しんだり、自ら創作をするようになった状況とは面白いくらいにリンクしていた。


俺の好きな物は俺しか知らない。

俺の好きな物は俺にしか作れない。 それがたとえ過去に見たモノの再編成だったとしても。

俺の世界と俺の世界観と、俺の世界の表し方は俺にしか見えないし、出来ない。


それはそれで、少し苦い「少年期の終わり」だった。

実際、好きになれた物ほどさっさと自分を過ぎ去っていってしまった。あるいは自分から去って行って。

今にして思うのは、上で書いたような「俺の好きな物」に自らやっと気づいたからこそ、ようやく現実を受け入れられるようになった。

自分が受け入れられるものは限りがあるし、それに対してシビアになるのは自明の理じゃないか、という開き直りも得た。

それがどんなに世間からダメなものと言われようと、自分の好きで、自分の表せられる世界は自分にしか判らないし、自分でしか出せないのだから。


閑話休題、本シリーズの話に戻ろう。

実際に玩具を買うまでにのめり込んでいたのは後にも先にも本シリーズと、リュウケンドーにレスキューフォースくらいのものだった。

しかしどれも自分の欲しい物には届かない。 

ことに本シリーズは、「やっぱり特撮ヒーローの世界もこんなもんかなあ」と、荷物を畳んで出ていくには十分な失望を与えてくれたもので。


以前の更新でも書いたが、まず2000年代前半期の東映ヒーローのムーブメントには全く乗れなかった。

仮面ライダーはそもそも好みじゃないし、戦隊は出戻った切欠ではあったものの、それもパターンが透けて見えてからは飽きが出て。

ウルトラマンも実は然程好みでもないという。 巨大戦自体は好きだがそれはどこまでもロボットでないとダメだったと気づかされたのもその頃で。

だからこそ、本シリーズには異様なくらいにのめり込んだわけである。


その時の自分の感覚が、本更新タイトル及び冒頭の内容にリンクしている。

きっと面白くなっていくだろう、この巨大戦が報いられるように内容も。

それはグランセイザーの時に芽生え、ジャスティライザーの序盤にはピークに達していたものであったが・・・。

結果はもう、拙blogのレビューを一通り御覧いただければ判るような有様で。

セイザーXに至ってはもう、これで終わりでもいいな・・・と。

それは四作目が無くても良い、とも言えたし、特撮ヒーローの世界ももういいや、という。


その後は、レスキューポリスと違い純粋にレスキューの部分だけを追求しようとしていたらしいレスキューフォースに注目し、最後まで追いかけた。

それもレスキューマックスが出てきたあたりで「うーん」となったのも懐かしい。

#そもそも特撮ヒーローとレスキューは食い合わせが悪い。


自分にとっても、本シリーズのスタッフにとっても、夢を見ていたことは間違いがない。

しかし、迷走の果てにコナミから逃げられる形で本シリーズは終焉を迎える。

東宝をはじめとしたスタッフ陣も他のスポンサーを捕まえることはせずに、なすがままに終わっていった。

この感想は今、コンプリーションがあるから抱けるものだが、当時はどう思ったのかと言えば

「いい夢を見せてもらった。 見せてもらったけど… やっぱり特撮ヒーローはもういいかなあ」

という、非常に苦い離脱の意思で。

入り込みやすい自分だが、ちょっとでも違和を覚えたら出ていくのも速い。

凝り性の一方飽きっぽい、とも言う。

かつてハマったビデオゲームの世界も、いまいちハマれるものに再度巡り合えず、

古いポップスの世界も、ゴダイゴの池袋三年連続コンサートで「もうゴダイゴもいいや…」となる始末で。


今にして思えば自分の2000年代後半は、まさに「創作や見世物の世界からのお別れ」が一気にやって来たものだった。

以降は色々彷徨いながら、それまで見向きもしなかった新書や評伝などの本を漁る様に読み、そこから自らの創作にもフィードバックされた結果

今に至って、拙blogもこうして続いてしまっている次第。


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レスキューフォースが終わってから「自分で漫画でも描いてみよっかな」と思い、絵の勉強めいたものをテケトーにやって、漫画めいたものを描いてみてからは

「あれ、俺漫画描けるじゃん?」と気づいてからは、自らの世界を掘り下げる方へシフトしていった。

と同時に、現在に至っても創作物はほとんど観なくなった。

#2014ゴジラ以降のゴジラシリーズは追いかけてるけど。

だって俺の中に楽しい世界があるんだもん。

そして、その俺の中の世界が充実するための、現実世界も。

俺と言うフィルターが現実の世界を描いている。


じゃあ何でこのブログやってるのか?

それは幾つも理由があって簡単には答えられない。 人間の行動ってそれくらい複雑なものだし。

ただ、あの当時の期待感を懐かしんだり、それを見事にオジャンにされたことに関する悲しみと、周囲のから騒ぎに対する反発と。

それらがやっと言語化できるようになって、ブログと言う形で述べるようになったわけである。

実際言葉にするようになってからは、何故このシリーズを夢中になって追いかけ、そして失望させられ、やがて冷静になって眺められるようになったのか。

そういう自分を俯瞰して見られるようにもなったのは事実。


これはこれでまあ、無邪気な受け手のままでいる事よりは楽しい状態なので、いいのか。


「さよなら。 ずっと忘れないわ」

それがたとえ、匂わせるだけの期待感しかなかったとしても・・・