2018年5月14日月曜日

「好き」を表明するのは難しい

今回もまた本シリーズからは離れた更新である。

表題の意図としては
「何かを好きになるということと、それを他者に伝えるということのギャップ」
を伝えたいと思ってキーボードを叩く。



自分の「考察?」または「追憶」ラベルの更新をいくつか読んでいただければわかりそうだが
自分自身、何かを好きになるのはともかく長続きしにくい。
が、一方で好きになったら割合熱中することも事実多かった。
音楽にせよドラマ、漫画、ゲーム、プロレス、特撮ヒーロー・・・。
ビリヤードや観賞魚飼育もこれに入れていい。

そうした物事たちの中には、関わっている人というものもある。
漫画で例えれば、漫画家ということになる。
自分の好きな漫画家というのももちろん居るが、自分が過去の経験上大事にしていることは
「その漫画家の作風が好きだからといって、全作品好きになる必要はない」
「その漫画家の作品が好きだからといって、漫画家の人格や趣味嗜好まで受け入れる必要は無い」
というもの。

無論これは漫画家に限らない。ミュージシャンでも監督、脚本家、プロレスラー、ゲームクリエイター・・・
要するに、送り手側のことである。
送り手であるからには、クリエイターだけでなく学者や大学教授などのアカデミックな方面の人々が書いたものも含む。

自分自身、若い頃によくやったが自己と他者の境界があやふやになってしまった結果
他者の評価を誤ることがいくらもあったからこそ到達した、現時点での自分の物事への接し方ではある。


無論これは自分ひとりだけならこれで良い。
しかし困ったことに友人知人、あるいはネット上の不特定多数の人間と、自分の好きなものを共有するときにはしばしば辛いことがある。

特によくやられるのは、「君もそれが好きなら送り手個人or全作品のこと知ってるよね?」というような話の流れ。


例えば、シン・ゴジラを劇場でよく見ていたときに、知人との会話やネット上でよく話題に上ったりすることとしては
「庵野らしい作風(だいたいエヴァ他を引き合いに出される)」
「庵野の好きなものは何々で・・・ (大体仮面ライダーとかが引き合いに出される)」
こういう話やレスを見たり、実際自分に投げかけられたりすると、自分は非常に困る。
なお、こうした会話のパターンは実際シン・ゴジラおよび庵野作品以外のあらゆるジャンルのオタクにありがちなものでもある。
大体興味のなさそうな人間に説明するときが多い。


何せエヴァンゲリオン自体、自分には合わなかったし平成ライダー含め仮面ライダーも同様に好みじゃない以上
そこから話を広げようとされても困る。
#他の東宝特撮映画がらみなら辛うじて乗れるのだが。
シン・ゴジラ自体は自分でも不思議だが、好きな映画ではある。
が、だからといって庵野自身の好きなものや彼の作品を、自分が好きである必要はない。


庵野秀明の作品をそう幾つも見てないのでなんとも言えないが、作家性としては良くも悪くも
「自分の好きなものをそのままストレートに、幾つもつぎ込む」人なのだろうとは思うし、それがある意味強みなのだろう。
「これが、僕という作家の個性なので・・・」ということかもしれない。
そうして作られた作品の中で、自分が好きになれたのが唯一シン・ゴジラだっただけの話。

一応話は適当に相槌を打つなり、適当に流すなりして上記のような話はやり過ごすのだが
別にシン・ゴジラに限らずこういうことは多かった。 
特にプロレスと特撮のオタク相手で。
まあ、自分以上に熱心に好きな人が多いのだろうということだと納得している。
情報のみをかき集めて、それを他人に伝えるということも含めて。
#それがオタクと呼ばれ、自認する人々の特徴であることはいうまでもないけれど。



きっと自分は、好きなものを他人と共有するということに気後れを感じるのかもしれない。
その作品だけを純粋に語られるならいいし、その送り手だけを軸に作家性などに触れるのは悪くないし
自分の見方以外のものを知るのはわるいことじゃない。
が、しばしば他者から話が暴走してしまうのは辛い。 その送り手の他の話(個人的嗜好や他作品など)まで拡げられると、困る。

ここまで書いていると、他の人はよく送り手を軸に色々話が出来るなぁ・・・と、感心する。
自分も送り手個人の話は、することもあるが大抵長続きしない。
好きは好きだが、淡白に話が終わるし、見ても居ないほかの作品や送り手個人の嗜好なんか話には出来ない。


ま、そうは言うものの
結局付いていけない話にはやんわりと離れるだけではある。
もちろん社交上トラブルにならない程度のタイミングであることは言うまでも、ない。

別にいいじゃない。好きなものを自分の中で飼って、熟成して生きていくのも。
情報と言葉だけがむなしく行きかうだけの時代だからこそ、少しは自分の中の畑を耕したり何かをはぐくむ余裕くらい持ってもいい。
たとえその時判らないものがあっても、放って置いて熟成させることで理解に深みと複雑な味が増すし、
なにより、自分が他の物事に触れる時の態度としてもゆとりが生じる。

それとは別に、ネット上では特によく見かけるが
慌てて自分が調べて知ったことだけ並べ立てたって、実はたいして皆興味はない。
匿名掲示板なり動画サイトのコメント欄、SNS、ブログなど・・・ ようはネット上のコミュニティ。
きっとオタクというのは、元来頭はいいけどオッチョコチョイなのだろう。
もっとも、聞かれるまで答えないほうが「社交」という意味では賢いと思うんだけど。


情報と知識だけで話をする段階から抜け出してみれば、コミュニケーションにもっと複雑な面白さが生まれる。
娯楽文化の下層にももっとそうした余裕くらいあってもいい。

情報を投げつけるだけなら只の壁打ちに過ぎない。
人間同士である以上、キャッチボールくらいできておいても損はない。