2018年5月26日土曜日

若い頃の記憶から

以前の更新で、「情報と知識だけでコミュニケーション(と言う名の一方的な言いっぱなし)するのはちょっとね」という意見を発した。
が、実は自分もかつて似たようなことをしたこともあった。

今回は、その「かつて似たようなこと」をした頃のお話をしてみたい。
当然超星神シリーズから離れたお話であることは言うまでもないが、まあいいじゃないか。


それは90年代のビデオゲームにハマっていた頃のお話である。

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90年代のビデオゲームムーブメントでもっとも大きかったもの、それは対戦格闘ゲームブーム。
当時はコンシューマ機でもRPGブームの安定期に差し掛かっていたり、所謂「落ちもの」パズルゲームの流れも出ていた。
後々ポリゴンによる3D空間を利用したゲームも多く生み出されたり、ビートマニアシリーズに代表される「音ゲー」も登場してくるのだが
個人的には格ゲーブームがもっとも大きいムーブメントだったと記憶している。
#ビデオゲーム全体での話。   コンシューマだけに絞れば所謂「次世代ゲーム機」の流れもあったが今回は割愛。


1991年に登場した「ストリートファイターⅡ」による対戦格闘ゲームブーム。
これの大きな特徴としては、「対戦における情報交換」という側面が生まれていたことだろう。
それまでのゲームでの情報交換と言えばクリアのための攻略情報や、ハイスコア狙いのためのテクニカルな情報、さらには裏技やバグといった情報が主であったが、
そもそも対戦の要素が大きくクローズアップされたのはストⅡが初めてであったが故の、それまでにない新しい視点での情報交換が活発に行われていくこととなる。


対戦においての情報交換・・・ 何処其処のゲーセンに強いプレイヤーが居ると聞けば遠征する者もいれば
キャラクターごとの立ち回り、自分が対峙するときの傾向と対策などを雑誌または実地で対戦した者同士で情報を共有しあったり
そうした動きが存外活発な時代であった。
当時はインターネットではなくパソコン通信。 その接続料や接続手段が高くつく時代である。
#そもそもPC自体が今と比べると高い。 接続もテレホーダイ登場までは1分何十円の世界だし。
全国区での情報網はもっぱら雑誌頼り。 遠いプレイヤー同士のやりとりも雑誌の読者コーナーを利用してのものが多かったとおぼしい。

自分は当時マイコンBASICマガジン(ベーマガ)を購読していたので、そのあたりのことは多少覚えているが、
読者同士のお茶会(今で言うオフ会的なものである)の呼びかけに連絡先を誌面で載せるなどしており
ネット時代と比べるとある面ではユルいが、しかし気楽にオフを呼びかけられる今の時代と比べると
この頃のほうが企画側も参加者側も、同じ雑誌読者ということで仲間意識もあれば、安心感もあったのではなかろうか。

他の雑誌・・・ ゲーム誌以外も込みだが、それらではオフ会などの呼び掛けどうこうについては寡聞にして知らないが、
しかし雑誌ごとの仲間意識的なものについては(ナワバリ意識のようなもの?セクト主義的?)
読者コーナーを各雑誌一瞥していれば割りと色濃く出ていたのはベーマガに限らず
どの雑誌でも感じ取ることは出来た。
こういう傾向は、インターネット登場から現在においても、ネット上での仲間意識というかナワバリ的というようなものが残っているところからも窺える。

この傾向、多少は陳腐化してる気もするが、この件はさておいて話を戻す。


さてこの格闘ゲームブームにおいては、上記のようなある意味「高等なコミュニケーション」を行える術がない自分でも、もっと身近な「簡単なコミュニケーション」は出来たのである。

例えば気の利いたゲーセンであればコミュニケーションノートがある。
あるいはゲーム好き同士で固まっての情報交換もまあ、出来た。
基本はもちろん同じ学校の人間同士であるが、全員が全員同じ雑誌を読んでいるわけでもないので
出所としての雑誌が違うことで、情報に若干の差異が生じる。
ノイジーなやりとりになることは言うまでもない。
これは、他人が情報源になることもあるし自分がそうなることもある意味では面白い。
何せ共通の話題と利害関係で成立している関係なのだから、あまり険悪になりにくい。
「おいソレ本当かよ?試そうぜ!」→「違うじゃん!!」or「おお合ってた!!」

ゲーム内での超必殺技のコマンド情報(SNK系は当初シークレット扱いにしていた。 後々公開するのだが)や、隠しキャラ出現コマンドの情報は本当に盛り上がったものである。
#隠し要素とコマンドという概念は、80年代のコンシューマゲームにおける「裏技」の流れをそのまま引き継いでいる。
#そのおかげで当時はこうした情報のやり取りすら大いに盛り上がったものである。

ゲーセンにおいても、店によっては掲示されたコマンド自体が微妙に違うという差異もある。
店員自体も個人間のやり取り⇒ 実演による実証というプロセスの中で
本来のコマンドとは若干違っててもとりあえずコレで出る、ということで貼り出したりする。
が、もちろんそんなことは皆わかっているわけで、当然「本当はどのコマンドが正しいんだ!」という
情報に対する欲が出るのは仕方なかろう。
で、正確な情報をしっていると、教えた側が報酬を貰うなんてことも個人レベルではあった。

そして今度は隠しキャラなり隠し技のコマンドや性能を踏まえ、対人戦において使えるのかどうかの検証という高度な話へ流れていくものであった。

こういう情報のやりとりで盛り上がっていたのは実際、1995年くらいまでだったと記憶している。
それ以降はキャラのタイムリリースという新要素に加え、そもそも格ゲー自体が飽和していて
若干飽きられ気味だったことも要因の一つだったかもしれない。
自分自身、1996年以降の新作はひとまず触ってクリアまでしてみる程度でしか興味が持てなくなってもいた。


今思い返すと、情報や知識に対する態度はこの頃に萌芽が生じていた気がする。
情報にはノイズがつき物である。
そして情報のやりとりには人間を介する以上、その人間のよしあしも影響してくる。
これは態度の問題も入るが、なにより「その情報自体が信用できるのか否か」という部分。

さらに実際の人間同士でなくとも、雑誌からの情報収集という面ももちろん大きく学べるものがある。
ここからはコンシューマ機の雑誌も込みだが、
裏技情報であえてウソを織り交ぜる雑誌は、よく考えてみたら良い教育雑誌だったと思う。
「そんな簡単に情報を信じちゃいけないよ」ということだ。
裏技でなくとも攻略法ですらウソ・・・ というか間違いはあったりするのが当然である。
攻略関係でなくとも、ゲームレビューやゲームそのものについての雑談も含まれる。
いま考えて見たら学生バイトが多かったゲームライターの世界においては、彼ら自体がノイズ源であることも否めなかったわけで。
#今そのへんどうなんだろう?>学生バイトによる記事

当然そうした状況は、各雑誌社で抱える本業またはバイトライターの質の問題ではある。
中には誤植ネタで盛り上がる雑誌すらあった。 本来論外なのだが。
そんなことでネタにして盛り上がれるのも、まあオタク的ではある。
ゲーメストはそういう意味では、ファンロード的な雑誌だったと自分は認識している。
#攻略記事や攻略本のクオリティが急に上がったのは、個人的には山下章率いるベントスタッフの活躍以降であると思われる。特に90年代後半。
#実際山下自体が攻略本の大家と言ってもいいんじゃなかろうか 何せ80年代から活躍してるし、今でも活躍中だし。


本の情報を吟味し、取捨選択する行為は特に格ゲーでは必要だった。
何故なら自分がプレイすればすぐ判るわけだから。
ただ、当時はプレイ料金を捻出するのも骨だったわけで、だからこそ本にしろ他人にしろ
情報そのものの信憑性をまず疑ってかかるクセがしらないうちに付いたものである。
だいいち乱入されれば、ヘタしたらすぐ金が飛ぶわけである。 
勝つためには当然情報を集め、噛み砕き、実地で確かめ、結果を踏まえて研究し・・・。
とはいえ当然その日の自分と相手のクオリティでまた変わっていくわけでもあった。
その点で言えば、情報収集は大いなる無駄と言える。

が、この無駄は若い頃であったからこそ大切な無駄だったと思う。
おかげで今でも情報については距離をとる習慣がついたわけで。
知識としてモノにするにしても、なにがしかの原典などに当たりつつ検討しなきゃいけない。
情報化社会などといわれて久しい今だが、個人的なことを言えば
情報は何処まで行ってもただの情報に過ぎない。
問題はそれを吟味する自分自身にある。
しかもその情報伝達は、人間同士であるということを考慮する必要もある。
当然何がしかの検閲が入ってたり、そもそもダミーないしウソだったり、
間違ってないけど半端なせいで信用性が弱まったり。

今はいまいち怪しい立場の人間が妙に信憑性の高い情報をリリース前に流すことが多いせいで
こうしたノイジーな情報を取捨選択するという行為が理解できにくくなっている。
それはビデオゲームだけじゃなく、新しいテレビ番組なり漫画なり、様々な娯楽関係の新作情報を指す。
いわゆる「飛ばし記事」も、主に訃報においてはネット上で早く伝播するような時代でもある。
それらは、情報としては結果的に合っていたといっても、合っていると確定するまでのアレコレの話をするのが面白いという程度にまで
情報というものの価値が落ちてるとも言える。

情報リテラシーが時折騒がれるのは今に限らないのだが、個人的には自分が経験したような、
酷くノイジーだった情報の伝播がまかり通ってた環境のほうが、
情報の取捨選択の能力をつけるという意味では良かったように思う。
もっとも、今の時代なりの取捨選択能力のつけ方というのもあると思いたいが。


人間が情報をやりとりするということは、送る側の主観が入ることから逃れ得ない。
「この人がこう言ってた」「この本に書いてた」「このサイトorコミュニティでこう書いてた」
という逃げ口上が苦しくなりつつある現在だからこそ、この視点は持っていていい。
だからといって情報から過剰に距離を置きすぎるのも単に臆病なだけではあるが。

欲しい情報を手に入れたいなら、あらゆるメディアに目配りした上で捨象するほかない。