2018年9月20日木曜日

河田秀二Ⅱ ~グッド・ドリームス~

最近どういうわけか、以前の更新を見る人が居るらしい。
色々思わんでもない。某脚本家を引き合いに出してるからだろうか。
それともかつてのインディー映画界の名物監督とされた当人のファンが、思い返したくて見てくださっているのか。
そんな現状を考え、様々感じたことがあるのでログとして残したい。



自分のことを言って恐縮だが、とうとう自分自身、河田秀二がグランセイザーで脚本デビューした頃と同じくらいの年齢になった。
別の更新で書いたが、その当時の河田は相当にロートルと言っていい年齢だ。
その脚本家デビューより数年前、河田は今も残るファンサイトでこんなことを言っていた。

「アマチュアとして映画を撮るのはこれで最後だ」
これはこうとも言い換えることができる。
「いい加減メジャーへ勝負をかける」

その時点でもう30代半ばであり、それまで何してたんだ?と思わないでもない。
実際はインディー映画を、学生時代から延々撮り続けていたとのことだ。
そして他のインディー映画チームの作品にも演者として参加もしていた。 それが彼の90年代。
フリーターでありつつも自分の映画を好きに撮っていた頃。
さぞかしそれなりに楽しい頃だったとは思う。

が、それはやっぱり鬱屈する。
誰でも経験してるだろうが、同じようなメンツ、しかも似たようなセンスの持ち主達と延々つるんでいたり、自分自身が「ただそれをやってるのが楽しいだけ」という所から変わってないうちは
どうしても暗~くなる。
年々、同じ繰言が飛び交う。 ちょっとシチュエーションを変えたり言葉をちょっとアレンジしてみても、
結局のところ「なんか同じことしてるだけで何の変化もない」という事実が浅黒いヴェールとして
彼ら彼女らに覆いかぶさる。

多分、当時の河田もそういう浅黒いものを振り払いたくて先ほどの「メジャーへ勝負」をかける宣言をしたのだろう。
確かに同好の士たちに認められ、楽しんでるうちは良いのだが、
それはコミュニケートするのが楽しいというだけで、クリエイトする楽しさとは根本的に違う。
特に創作関係はこうしたギャップが常につきまとう。
金も絡めばもっと事態はややこしくなる。
年齢を積み重ねるにつれて、脱落者も増える。 
そんなコミュニティに新しい人が入ることもあるが、それは結局脱落の実績を増やすだけだったりする。

かくして、青黒い少年少女がこの世界にある。


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河田本人のハラは判らないにしても、何かが鬱積していただろうことは想像がつく。

創作で身を立てる。 
そんなことを望む人間は、案外多い気がする。
そしてチャンスはすばやく訪れ、すばやくそれをモノにできた。
まずは吉本興業が、河田の映画を認めたことでメジャー監督への道が拓けた。
その後雑誌「Gun」の映画コンペへ応募し、優秀賞を獲った結果東宝制作のオムニバス映画の一編として上映される僥倖を得る。
そのオムニバス映画が「KILLERS」。 押井守やきうちかずひろ、そして河田の好きなドラマ「太陽にほえろ!」の脚本家でもある大川俊道がメジャー側としてメガホンを執っている。

望んだとおりにメジャーの映像作家デビューの道を歩めたが、
その過程で生じた、大川俊道との交流が影響してか、
グランセイザーにおいてメジャーの脚本家デビューもついでに果たすことになった。

このように河田の2000年代前半の活動を、大雑把に概観すると。
はっきり言って「夢見る中年男性のサクセスストーリー」としては、割合いい形じゃないかと思う。
映画に限らず漫画でも小説でも音楽でも良かろう。
とにかく創作で身を立てたい、という人間から見たら好条件と言っていい。
映像制作スタッフを社内でもってない、という条件こそあるものの、東宝がらみでデビューできてるのはハク付けという意味でも大きいはずである。

正味の話、年齢を考慮したって相当恵まれている。
#個人的には、これに匹敵する幸運な創作者と言えば、漫画家のかとうひろしや青木雄二がふと思い浮かぶ。
#ただ両者は、一応若い頃にメジャー誌(ここでは同人誌をインディーと定義して、こう表現する)で受賞経験や掲載経験もある為、話が違ってくる。


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なのだが・・・。

本シリーズで脚本家を続けているうちに、当人も映像作家としてはどうでも良くなっちゃったのか、
「まだまだ続くと思っていたヒーローものシリーズ」が、三作で終了。 本人曰く「打ち切られた」。
一応、四作目の企画書を出す直前まで来ていたそうではあったが。
#企画書の件は既に消滅した日記に載っていた。

以降は、特に営業することもなく「自分を必要としてくれる仕事があれば、脚本を書く」状態まで活動が低下する。
(ただし専門学校の講師だけは営業によって得た仕事ではあった。どの程度やってたかは知らない)
これは今もアーカイブとして閲覧できる当人のブログに載っている話だ。

本人の自己分析としては、そもそもが内気であるそうだ。
まあ創作する人は大抵そういう要素が多かれ少なかれある。
基底の性格としてそういう人が創作に行くケースもままある。
その上ナイーヴで、好き嫌いがはっきりしすぎている。
まあこれも、内気な人間にはよくある。
はっきり言われることにムッとする人もいるだろうが、この際はっきり言う。


これが20代なら、まだ先のかとうや青木のように、自分のやりたい物事に関係する仕事に就き
雌伏の時を経て遅咲きする・・・ などということになれるかもしれなかった。
当人の実家が裕福で、かつ財産を相続することが確定していれば、メジャーの創作にはたまに参加するスタンスも取れたろう。

が、河田本人はそのどちらも無かった。
そうした創作者が、40過ぎていけばどうなるかは、当事者でなくても想像は付く。
その後はバイトを掛け持ちするなどしてなんとか生計を立てる所まで「落ちぶれた」。
そしてブログで様々な創作物をレビューしてみたり
自分の創作者としての歴史を連載したりもしていたが、その過程でトラブルがあったそうで、結果ブログを閉鎖してしまっている。
今は、フリーター時代に知り合った女性と数奇なめぐり合わせの下結婚し、その後は知らない。



当人が言うように、落ちぶれた脚本家というのは事実だろう。
しかしそうなったのは、自ら業界に背を向けて逃げ去ったから、というだけの話であった。
別に関わった作品が全然当たらずに声がかからなくなったわけじゃない。
この辺は、先ほども触れたアーカイブとして残っているブログを見ていただければよろしい。

そんな体たらくにも関わらず、現代の創作物を小馬鹿にする一方
太陽にほえろ!ファンと喧嘩別れするどころか、かつてファンサイトを作るくらいに支持していた人たちにまで見限られ、
某女優に現を抜かし、エロに逃避し、挙句の果てに「脚本家の時と同じように、自分自身も作品として」表現した内容が
知人を傷つけたという事実に直面し、ネットへの怨念を呻きながら消えていった彼。


かつての夢見る中年男性は、夢に裏切られた形で、いや、夢と現実を折り合いつけられないままに
もがいてもがいて、どっかの彼方の島まで流れ着いたのだ。

その結末は、青黒い少年少女のままで居るよりはマシだったろうが、それでも
映像作家としての河田秀二を思えば、一生インディー映画監督のままで気ままに生きていたほうが
実は幸せだったんじゃないのかな、と思う。
だがそれはあくまで「創作者・河田秀二」に向いた意見である。

たんなる一個人としての河田を見るならば、結果は悲惨ではあるものの
ささやかな幸せを手に入れ、どうにか今も二人、ごく平凡ながらも人生を生きあっているのだろう。
かつて見た夢とは違うが、これもこれで
「自分の人生を創造する」
という点においては、決して無駄ではないと信じている。



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前述の、東宝で制作されたオムニバス映画「KILLERS」。
五編あるうちの一編を、河田と同じくインディー映画界で鳴らしていた男も制作していた。
彼の名前は辻本貴則。
いまやウルトラシリーズ、High&Lowシリーズ、実写版パトレイバーなど知名度が高く、人気もあるシリーズの演出に参加するまでになった男である。


辻本自身は、河田と同じタイミングでメジャー監督としてのスタートラインを切ったはずだ。
だのに、かたや脚本家として終り、かたや演出家のまま今尚活動を続けている。
河田のファンサイトでも辻本がコメントを寄せているのだが、今それを読み直すと
あまりにも、両者の明暗が分かれすぎて切なさを覚えずに居られない。

辻本が忍耐強く映像の世界で生きる道を採っただけ、とも言える。
だがそれは、インディー時代のような青白い夢の世界の時と同じ感覚を許さない。
他人が金を出し、今まで付き合いのないスタッフを使わざるを得ない立場。
一見すると無邪気に王様気分を満喫できる立場、などとつい言いたくなりそうだがそれは違う。
他人の金で映画を撮るということは、スポンサーというかクライアントの要求を織り込まざるを得ないということ。
スタッフの規模も増えるということは、それだけの人員を適切に使いこなさないといけないということ。
インディーとメジャーには超小規模な自営業と、何百何千人規模の会社くらいの差が、ある。

辻本にも、今までの過程で悔しい思いをしたことは多かっただろう。
イヤな現実に耐え切れなくなりそうなところもあったかもしれない。
が、彼は「監督として」生きる道を選び、それへの意思を曲げなかった。
簡単に言えばそうだろうが、当人にはそれほど簡単でもなかろう。


なにより河田と辻本は、6年の年齢差があった。
辻本の若さが、現実を乗り越えられるだけの強さに繋がったというのはあまりに陳腐である。
しかし、今グランセイザーの脚本を手掛けた頃の河田と近い年齢になった自分はこう思った。

歳を食えば食うほど、意外と現実への抵抗力が弱くなっていく。
それは、新しい世界へ足を踏み入れる年齢が遅ければ遅いほどに。
これは疑えない実感としてある。
しなやかに生きていくことが段々と、本当に難しくなっていくのだ。三十代も終わりごろになれば。
ウンザリごとを経験することが多い分、そこから逃げたくもなるのだ。

せめてもっと早く、河田がメジャーデビューを果たしていたら。


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その辻本や、インディー時代の知人たちの集まるBBSが、実は今も残っている。
そこに河田も幾つか書き込みをしている。
時期は2009年。 プロデビュー直前に制作した映画「抱腹絶闘」(辻本貴則との共同演出)について、
当時押井守や同作の制作会社である吉本興業系の会社スタッフに言われたことを追憶していた。
#ログでは伏字だったが。 
#時期は後になるが、おそらくKILLERS制作前に開かれた「ガンコン」というビデオコンペにインディー時代の映画を出品していたのを押井が見たのだろう。


押井曰く「河田には中尾隊長シリーズが全て」と言われたそうな。
※中尾隊長シリーズ・・・ 河田インディー時代の代表作。
また吉本側からも、その路線を期待されていたとも。

だが当人は、あくまで「そこに納まりたくなかった」 と言う。
まあそれは判る。
ただ、同時に引っかかりも覚えた。
じゃあ河田には当時、自分自身に他の引き出せるものがあったのか?と。
多分無かったのだろう。

それはその後に続く「自分はプロフェッショナルになりきれなかった」という言葉に表れている。
文脈を考えたら、吉本が求めた「中尾隊長シリーズの路線」を言われたまま遂行できなかったということだが。
これは、吉本や押井などメジャー側の人間たちに河田のインディー時代の代表作は一応リサーチされていた事実を物語る。
そして吉本は、インディーの頃の路線を踏襲して欲しいと願ったし
押井は冷静に、河田の作家性を見抜いた。 多分限界も見えたのかもしれない。


あまりにも当時の河田は、インディーとメジャーで一線を引くことを強く意識しすぎていた。
「あれは昔の作品だしインディーだから。メジャーになれば僕はもっと違うものが出せるんだ」
などと、そんな馬鹿げたことを考えていたとしか思えない。
考えてみれば判りそうだが、どんな創作者であっても過去の自作品の脈絡からは逃れ得ない。
過去作品は、創作者にしてみたら履歴書にも等しいものだ。

履歴書に書かれている内容をアテにして採用担当が合否を決めるわけだが、
その履歴書の内容を面接の場で突如否定しているくらいには、当時の河田の発言は拙い。
引き出せるものがないなら、せめて吉本など周囲から求められているものにひとまず乗っかって辛抱強く作っていれば良かったものを。
そのうち、自分も知らない能力やセンスの側面に気付くことはままある。

河田自身は結局、メジャーへの思いを強く持ちつつも、センスとしてはインディー時代からあまり変貌してない。
変化させるチャンスはあったのかもしれないが、本人がなんとなく落ち着いちゃったままで
インディー時代の作品を評価されてしまったのが運のつきのようではある。
だからこそ「インディー時代の自分の作品のエッセンス」を求められたときに無意識の反発が生まれたのだろう。

が、結局のところインディー時代に培ってしまったセンスとモノの観方をそのまま引きずったのが不味かったのだ。


「才能は出し惜しみするものではない」という金言が世の中にはあるものだ。
もっとも、ない才能は出しようが無い、というのも厳然たる事実だが。


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超星神シリーズ終了後の河田は、特に業界内のツテもなく
「自分の能力を必要とする人が居れば、仕事をする」
という所まで活動が停滞。
かつてのインディー仲間との交流は、BBSなどを介して持続していたようだったのだが。

ただ、2000年代後半~ブログ閉鎖までの河田を自分なりに概観すると、
まだメジャーデビューして立場が変化した自分、というものに過剰なこだわりを持っていたとしか見えない。
このあたりはファンサイトに残されている、辻本貴則他からの河田への応援メッセージと、それに対する河田本人のコメントを見ても伺えるが、
河田本人は当人の実績からは想像が付かないくらいに
「創作者として、それもメジャーのそれとしてのプライド」
がやたらと高い。

妙に尊大な物言いが多いのは、インディーとはいえ長らく映画を撮っていて、
なおかつ受賞経験もいくつかあるが故のプライドであろう。
しかし、当人曰く高校生から10うん年もインディーであり続けていたことが、この奇妙なプライドを生んだ。

この記事の前半部でも書いたが、延々同じようなセンスの連中とつるみ、自分の好きなものを好きなように楽しんでいた時期が長すぎた。
また悪いことに、そんな状態で作られた創作物が評価される結果
本人も意識してないうちに悪いスパイラルに陥っていたわけだ。


そんな状態でメジャーデビューしてみれば、どうか。

プライドだけは妙に肥大したまま、しかしインディー時代とは勝手が違いすぎるメジャーの現場に
大いに凹まされ、叩きのめされ、 ・・・ これは河田自身がそう感じただけに過ぎないのだが、
その結果「メジャーにはもう夢も希望もない」 と、自らメジャーへ背をそむけ逃げ出した。

それならインディー時代の連中とまたつるむのかしら、と思うとそうでもなく。
つまりインディー映画に舞い戻るのかということだが、それは無かった。
どころか、ブログという自らの部屋の中で、業界への怨念を吐き出し、
自分の好きなものにだけ囲まれ、「元メジャー脚本家」というプライドを隠すことなく色々書き散らし、
挙句の果てに自滅する。


アーカイブ化されているブログの、とある記事でセイザーXにて名前だけ借用したトビィ三好氏へも呼びかけた河田。
あの当時の河田は正直甘えが強すぎたのだ。
自らインディーの仲間たちとメジャーの自分、という一線を引き、その上でかつての仲間に呼びかけたって
誰でもイヤがるのは明白だろう。
ブログ末期の河田は、かつての仲間たちにすら見限られていた。
そして自分勝手な怨念も募らせていたのだ。

だが、これはブログ当時にそうなったわけでは決して無いと自分は言い切れる。
先ほど挙げた、ファンサイトの河田応援記事とそれへの当人のコメントを見ていただければよい。
その時点で河田は「オレとお前らは違う」という態度を発散していたのだ。
これこそ、「ずーっと同じようなセンス、顔ぶれのメンツとつるみすぎた」上に「そんな状態で作った創作物がヘタに評価された」ことによる
最大の弊害である。
根はほとんどインディー時代から変わってないにも関わらず、である。
恐らく誰も言わなかっただけで、インディーの頃からそんな態度が見え隠れしていたのかもわからない。

恐らく辻本やトビィ氏たちは、この時点で河田と距離を置きだしたのは想像に難くない。
トビィ氏たちは、自分たちの好きに映画を楽しんだり、作ったりすることを続けた。
辻本は、歯噛みしながらも自分の映画をメジャーで創る為に、メジャーでの下積みに徹した。
こうした態度の時点でもわかりそうなものである。


河田はメジャーデビューがあまりに遅すぎた。
インディー時代の環境がある意味足を引っ張ったのもある。
そして、多くの希望に燃える人々がしばしば勘違いするように、「目標を達成した時点で、自分を実現・完成させられた」
と錯覚して、そのまま終わった。
本当はそこから別の始まりを切るのだけど。
だが、別の始まりに足を踏み入れるには河田は歳をとりすぎた。
そして甘えの世界から逃れ得なかった。


メジャーに戻ることも出来ず、インディーへ帰ることも出来ず。
新たな創作の世界を開拓することすら出来ず。
河田にとってはこの状況こそ「なんて世の中だ」と思ったのではなかろうか。


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最後に。

この記事を書くにあたって「新・なんて世の中だ!」(ファンサイト)にかつて書かれていた
当人による日記・・・の、自分が記憶がはっきりしてるものに限って引用、さらに
アーカイブとして残っている「blog@なんて世の中だ!」を参照して書いている。
あとは、河田の関係者が運用しているBBSのコメントくらいか。

が、実はファンサイトとアーカイブ化したブログの間に、いわば旧ブログと言えるものが存在していた。
そちらでの記述は、個人的には河田本人に対する失望を深めた物事が多く書かれていた。
特に本シリーズに関する記述には、当時の一部スタッフとの軋轢があったにせよ
それは知りたくなかった、としか言いようが無いものが多かった。
#だからクリエイターがヘタに現場の話とかしちゃダメだっての。 たとえ元、といえども。

そちらはアーカイブ化もされていない為、それの存在していたという事実と、記事を読んだ自分自身の記憶という事実に関してはこれ以上述べないことにする。


で、アーカイブ化されてるほうのブログを改めて見直して、イヤな事実に気付く。

そっか、河田にとってはこのシリーズ、あんまいい思い出ないのな。
他の、自分が関わった作品のことは記事にして書いてるのにな。


それら全てを踏まえて、言わせて貰おう。
あの時、グランセイザーの「さらば相棒!」でいい夢を見せてもらった。
あれのせいで、三作も河田にも注目する形で追いかけることになった。
多分川北紘一だけだったら超星神シリーズなんて見てなかったかもしれない。
河田がいたおかげで、辛うじて本編も見続けようって気になったということ。

これだけは否定しようもないから、改めてありがとう。
もう、あの時みたいに夢に心奪われることは一生無い。