2018年9月25日火曜日

興行論のようなものを試みに。

「興行」という言葉がある。
大まかに言えば「入場料を取ってスポーツ・映画・演劇・ライヴなどを見せる」
ということになる。

今回のタイトルで言えば東宝を初めとした映画会社が興行主、ということになる。
ただしこれは、自社(またはグループ会社)で映画館を持っている前提がある。
もっとも、現実には独立系のシネコン(ユナイテッドシネマやコロナ等)もある為、
現在においては単純に映画を配給する会社が興行主、という所まで解釈を広げてもいいとおもう。


さてその映画興行。

調べれば一目瞭然だが、ここ20年近く東宝がトップを独走している。
それに食い下がろうとするのが、戦前からのライバルである松竹であり、
戦後登場し、東宝を真似た形で立ち上がった(親会社が私鉄、など)東映であった。
ただし、下位グループにこの二社はまとまってしまっている。

現在は松竹や東映なりに興行で色々工夫しようとしているのがうかがえるし、
実は東映はここ数年でライヴビューイングやHMDを使った映画という試行錯誤をやっている。
#ただしライヴビューイングは何も東映が初というわけではない。
#スポーツなどでパブリックビューイングという形の興行が少なくとも90年代から存在しているからだ。

ライヴビューイングは別に東映制作じゃないが、東映系の配給ラインで提供するということで一応の効果を挙げている事実はある。
ただし今は、東映以外もライヴビューイングを手掛けるようになっているがそれは後述。
HMDのほうは「ワンピースや仮面ライダーの映画にも使う予定」としている点に、今の東映の番組構成が透けて見えてしまうが
これも後述しておく。


なお今回の更新で述べる興行主が東宝、松竹、東映に偏っているのは
単純に自分が他の日本国内の配給会社について知らない、というのがひとつと
戦前・戦後からのいわゆる「かつての五大映画会社」の生き残りたちに的を絞ったほうが良いと言う判断からこうなったことを
予めお断りしておく。


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今回は主に「会社のカラー」という部分から興行論のようなものを書く。

以前、別の更新で「東宝にはカラーがない」と評した。
だが、そのカラーのなさが故に現在日本における映画興行トップの座を磐石のものにしている事実もある。
強いて言えば健全さの強い陽性だが、無色と言える。
が、そのカラーのなさのおかげで興行を打つ会社としては、バラエティに富んだ番組を提供できているという現実がある。

東映(洋画系)配給から切られたジブリを、東宝が拾ったあたりからこの傾向は強まったと言っていいし
事実90年代中盤からは東映他を大きく引き離すようにもなった。
今となっては東宝アニメ映画興行の四天王となっているドラえもん、クレヨンしんちゃん、ポケモン、名探偵のほうのコナンが
今尚強固なラインを引いている。
実写の番組も、年度ごとに本数は上下しているものの多い。
昔は「自社で作ってない東宝なんか・・・」と小バカにする意見が、主に映画オタクや特撮ヒーローオタク連中から聞かれたものだが
今となっては、自社製作を早く捨てた東宝のほうが映画興行トップというのが皮肉だ。


最近では「東宝の健全かつ無色なカラーにそぐわないものでなければ、ある程度受け入れる」ようにもなってきている。
#「悪の経典」や「怒り」などは、その方向性の過程で制作に関与した映画といえそう。

だからこそ、「シン・ゴジラ」も(庵野他はイヤなのかも知れなかったにせよ)割と東宝としては
踏み込んだ作品になったのではなかろうか。
東宝が提示したという恋愛を庵野が否定したぶん、
庵野の好きなグロを東宝も否定したのが、結果的にはゴジラにとっても庵野にとっても、東宝にとっても
程よい緊張感のある番組になったのではないか、と今更思う。

自社製作しない、ということは、多様な才能をその時代の要請で招聘できるという強みにも繋がっている、と自分は評する。
無論これは東宝の陽性で無色なカラーあってのことである。
これは80年代初頭に起用した大森一樹監督を思えば、東宝の手法が案外今も有効なのだと思わされる。

なにより東宝は、企画に関わる立場でもあるプロデューサーをはじめとした、企画チームの層も実は厚いように見える。
これも自社製作・・・ つまり社員監督や撮影スタッフなどを持たなくなったということが、結果的には映画製作の上流である企画者を強化することに繋がっていると考える。


売れるならそれでいいじゃん、ともいえなくもないが、そもそも興行とはそういうものである。
松竹だって過去には北野武に映画撮らせたり内田裕也製作・主演映画をわざわざフランスで撮ったんだし。
映画興行というものは、監督のネームバリューというのも無視出来ないものだ。


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翻って他社はどうなのか。

東映は「テレビの劇場版ばっか(=ファンしか見ない傾向強し)」「主役至上主義過ぎる(=ヒーローものには適している)」
「オリジナル映画が弱すぎる」
#この点は、自社製作にこだわる東映と企画にのみ関わる東宝の差として興味深い。
最悪「時代劇やヤクザ映画の頃の印象がまだ強すぎる」というのもある。
テレビはどうだか知らないが、映画興行主としての東映には、実は色々問題が山積しているように思える。
バラエティ性が無さ過ぎるというか、上記の言葉で表現できてしまえるからだが。
これらをもって東映のカラーと言える。  簡単に言うなら「テレビ頼り」か。

松竹になるともっと厳しい。
「古臭い」「ガンダムとウルトラマンの劇場版の会社」「男はつらいよの会社」
「松竹新喜劇」「歌舞伎」(これらは古臭いイメージの説明として強調される)
「唯一の関西系」
など。
カラーとしては「とことん古臭い」ということか。

こうしたことはイメージに過ぎないといえばそうだ。
が、これはかなり重大な問題も内包している。
見世物である興行というものは、テレビやCS放送などとは根本的に違い
「木戸銭(入場料)を取って客を入れ、その客を楽しませて帰らせる」
ことが至上命題となる。 当たり前だ。


そして客は基本的には浮動票の側面が強いため、「なにがなんでも東宝の映画じゃなきゃ」とか
「東映映画しか観てません」みたいな、よほど偏食気質の強い人間が成立しにくいのが
映画興行というものでもある。
これがプロ野球興行なら、ひいきのチームというものがある。 プロレス興行なら、ひいきの団体。
ポップスのライヴ興行なら、好きなミュージシャンが出てなきゃ行かない、というのはある。

が、映画でこの手法を採るのは割と悪手であり、実のところ東映は悪手に頼って20年近く細々やりつづけているとも言える。
テレビの劇場版くらいしか目ぼしいものがない、というのがそれだ。
これは、浮動票たる多くの客からすると「テレビの観てないからなあ・・・」で敬遠することに繋がる。
最悪「テレビのほう観りゃいいじゃん」だったり「劇場版観てみたけど、テレビ観なくていいか」
という流れにすらなる。
ファンさえ付ければ強固、とは言える手法なのだがこれを維持するためにテレビ番組制作や映画をやり続けなくてはならない所もある。

ここを踏まえると、実は東宝と比べると、東映の企画サイドは弱いのでは?と思わないでもない。
特に映画興行。


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仮にテレビ番組が宣伝に繋がる、という理屈が成り立つならば、
東映は圧倒的に有利に見えるがそれなら今頃東宝とトップを張ってなければおかしい。
ということは、東映の映画をわざわざ観たいと思う客が思いのほか少ない、ということである。
宣伝に力を入れてない事情もあるかも知れないが、そもそも
大元のテレビ番組の宣伝効果が高い、ということに胡坐をかき過ぎでもある。
仮面ライダーなどの、昔からのファンが居る番組に甘えているというのも、ある。

テレビ観てなきゃ劇場版なんか観ても楽しめるわけが無い、という事実はかなり厳しい問題である。
2000年代初頭こそ、それでも仮面ライダーの映画はヒットしたらしいと言えども
それは当時の熱気がそうさせた側面もある。  
#まあ昔からの体質でもある以上、致し方ないのかとも思うがしかし・・・>劇場版

その熱気がだいぶ落ち着いた今俯瞰しなおすと、テレビの劇場版頼りという東映の映画興行は
もう少し社内で危機意識がないとどうしようもないのじゃないか、と思わんでもない。
先に挙げたHMDを使った興行など、VR化することで臨場感を増したい狙いのようだが
私見ではよほどギミックに凝らない限り「一度観たらこのギミックはもういいわ」となりかねない。
今さら、自分たちも過去にやっていた「飛び出す映画」じゃあるまいし。
小手先だけこねくり回せば良いと言う物でもない。

どうも「バトルロワイヤル」から先の展望が見えなくなった状態そのままで20年近く来たのが東映とも言える。
#同時に、深作欣二監督死去後に看板監督を擁立しなかったことも響いている気もする。
#東映の方向性なら、古臭いとはいえ会社付きのスター監督くらい居たほうが良かったはず。
#作家性が脚本家にばっかり寄っている、とも言える。テレビで鳴らしすぎの弊害ではある。


松竹だが、実は東映や東宝と違ってライヴビューイングで面白い試みを行っている。
ニューヨークでのオペラを番組として提供している。
これ自体は松竹系の映画館や独立系映画館で、ニューヨークでの公演にあわせて番組を構成している。

ライヴビューイングというものの欠点として、通常の映画興行の番組に構成しにくいというものがある。
これはそもそもの公演のタイミングに合わせなくてはならないからだ。
よって基本は、単館かつ時間帯限定ということになるし、機材などの問題もあってか
普通の映画を観るより入場料が倍以上かかることも稀ではない。
このへんを踏まえ、オペラ好きやオペラを見たいが実地まで行くのは・・・という層を掘り起こしていると思うし、
特に実地まで行く予算などを考えたら、ライヴビューイングの予定だけ抑えればいいこの形は
世界のスポーツ興行や舞台・歌曲興行に容易に応用が効くし、ニーズをうまく掘り起こせてよいのではないか。

幸い松竹には歌舞伎興行という、戦前から続いている強力な武器があるし
実際、過去の公演を撮影したものを上映する「シネマ歌舞伎」という番組も持っている。
歌舞伎もライヴビューイングで提供するようになればいいのだろうが、現実的ではないか。
大抵3時間以上の公演になるし・・・。

いずれにせよライヴビューイングの欠点でもある、通常の映画興行に組み込みにくいという部分を
なんとか解決できるならば、松竹に限らず他社にも活路が拓けるのは言うまでもない。


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こう、主な三社をメインにそれらの会社のカラーから興行手法や
現代の工夫を述べて思うが、

東宝のようにとにかく番組数を充実させつつ、企画にも関わってみたり
松竹のようにライヴビューイングに活路を見出してみたり
東映のようにテレビ頼りでもそれなりに映画興行を続けてみたり

三社三様ではあれ「映画興行自体が必死になって客に観て貰おうとしている」
ということは、自分が今更言うまでもなく皆さんご存知のことだろう。


こうしたことは、日本映画だけでもなんとか商売になった70年代までとは違う。
80年代からはアメリカ映画を中心とした洋画が、日本市場でも強力な競合相手になっている。
特撮やロケーションなどのクオリティ・規模が桁違いのハリウッド映画をはじめ
ジャッキー・チェンなどで一気に台頭した香港アクション映画たちは
それまでの日本映画でもやっていた領域を、より超えるインパクトをもって迫ってきていた。

つまりは、80年代から日本の映画産業は強力な海外作品を前に、その進路を決めあぐねつつここまで来たともいえる。

客にしてみたら、当然より一層楽しめそうなほうに木戸銭を落とすのは当然。
こうした状況では、それまで日本だけでなんとかなっていた日本映画はややワリを食う。
現代で言えばまるで「ガラケー」と罵られ、iphoneに代表されるタッチパネル式スマートフォンによってシェアを奪われた日本の携帯電話が如く。


とはいえ、進路を決めあぐねてとは言ったものの、この過程の中で
「とにかく客を呼ばないと話しにならない」と、各映画会社が必死になっていたのも事実だろう。

それが、今まで畑違いの分野で活動していた人間にメガホンを執らせることになったし、
インディー映画の世界から人材を掘り起こすことにも繋がった。
東映のように、ますます自社製作したテレビ番組の劇場版に偏重する流れも出てきた。
角川映画のような、「メディアミックス」を武器に台頭してきたニュータイプの興行手法も出てきた。
メディアミックスによって、コアになる作品のリリースからそう間が空かないタイミングで
映画版やなんかも出てくる形も、今に至るまで存続している。
広告戦略としての「コラボレーション」という形でのアピールも、日本映画においては積極展開されている。


これら映画会社たちが行ってきた一連の工夫を皮肉な態度でバカにするのは、たやすい。
しかし自分を含めた多くの浮動票たちは、とにもかくにも
「楽しめそうな、満足できそうなもの」
を常に求めていると言ってもいい。
興行という形で言えば、映画という興行は、実はスポーツ興行や音楽興行などと違って
まだまだコアになりそうでならない。

つまり、映画のジャンルなどに拘りさえしなければ、どんな人間にも門戸が開かれているものと言える。
それゆえ客はうつろいやすい。
だが、客とはそういうものだと考えてみれば、コアなスポーツ興行他と比べると
まだマスな要素が強い映画興行は、案外まだまだ続くのでは?と思う。

爆音上映やら絶叫上映などの、「イベントとして楽しむ映画の形」も出てきた。
どんな人間でも、web上で自分の意見を言える場所が今は多い。
ブログやツイッター、いまや影響力は弱ったがミクシィなどのSNSや匿名掲示板などなどが
こうした新しい興行の形を、草の根的に広めることにも繋がっている。

今の時代だけで終わる形になるかどうかは知らないが、個人的には
イベントとしての映画興行という形はもっともっと東宝他の映画会社も追及して欲しいと願っている。
シン・ゴジラヒット時に急遽観客用ステッカーを作って配布した東宝などは、その意味では
「地味だが、出来る範囲でのイベント」を作り出しているため、自分は高く評価している。

だが東宝や他の会社は、同じことをやるべきではないとも言っておく。
そこは常に工夫や、状況を踏まえてやるものだろう。


シン・ゴジラ上映当時、見るからにオタクっぽいのから、到底観そうに見えない老夫婦や
中年グループ、若者達まで幅広い観客達が、上映後に皆それぞれに感想や雑談、考察に興じていた。
ああ、これが映画興行の本来持っているパワーなのか。
しかもオタクじゃない、ごく普通の人々もそれをやっている光景。
あの中に身を置き、自分もそれに混ざったあの経験は強烈だった。

かつてGODIEGOやTHE ROOSTERSのライヴを観にいったときのあの強烈な体験に匹敵、それを超えるものがあった。
そして自分は思う。
映画興行はイベントであれ、と。

我々観客は部分だが、映画興行を観に来た存在としては全体である。