2018年11月24日土曜日

超星神シリーズと特撮とオレ【12】

最近、なぜ自分はこのシリーズに夢中になっていたのだろうか、と思うことが増えた。
まあ色々理由はある。
だが一方、色々忸怩たる思いを蘇らせることも増えた。
今回はそうしたことを、追憶を交えて書いておく。

まずは今回の更新を書こうと思ったキッカケを述べておく。イントロというやつだ。



ホットペッパーの公式HPにて連載されている、プロレスラーの食事についてのインタビュー記事。
これに鈴木みのるが登場しており、若い頃からの食事にまつわるエピソードを述べていたのだが
パンクラス時代にある人から言われたことが後々まで影響するほどのインパクトがあったそうな。

曰く。
「変えるんなら全部変えないとダメだよ。小手先でちょっと変えたくらいじゃダメ。客はちょっと通り過ぎただけで良し悪しを判断しちゃうんだから」
(以上の要約は大津)
これは、その人が「君たち(パンクラス所属選手)新しいことをしようとするとして、どういうことをしたら世間に伝わるか知ってる?」と尋ねてから
みのるが「スゴイことすればいいんでしょ?」と答えたことに対する返しである。

これは受け手と送り手のギャップの問題としてもかなり興味深いし、
もっといえば受け手の大多数というものはいかに「ぱっと見」で判断しているのかがよく判る。
そこは別更新で突っ込んでおきたいので、今回はこのへんで留めておく。
今回の更新のためのイントロだし。



イントロは終り。ここから本編である。
まず、自分のヒーローもの遍歴を述べておく。

80年代に幼少期を過ごした人間なら大体誰でも同じように、自分も東映のヒーロー物で育った。
ウルトラシリーズで育った子も居たには居たが、そういう子は誰が見てもちょっとイイとこの子、というパターンだったと思しい。
何故ならまだビデオデッキもビデオソフトも大して普及しきってなかった時期の話だからだ。
#だからこそ、この当時ウルトラシリーズは頻繁に再放送されていたりもしている。

自分の最も古い記憶ではダイナマン~フラッシュマンまでは多少記憶に残っているし
印象も深い。
ライブマンで戦隊初のスーパー合体を見たときにはインパクトはあったが、
WSPとSRS以降はビデオゲームの世界や漫画の世界へと惹かれていき、ヒーローものからは離脱。

出戻ったのは1998年。
ギンガマンの途中、確かギンガの光争奪戦の最終盤のあたりだった。
獣撃棒が出た回だったんじゃなかろうか。
そこからヒーローものを、レンタルビデオが出ているものを可能な限り見る程度にはハマった。
この時、仮面ライダーはBLACKしか見ていないということを付け加えておく。
後々の話に影響するからだ。
#元々仮面ライダーには全く惹かれなかった事情もある。


2000年にはクウガとタイムレンジャーを以って、自分の中でヒーローものの熱が冷めかかっている。
これには今思うと様々な理由がある。

タイムレンジャーまで見ていくと、流石にパターンが見え透いてしまっているというのがあって、
ドラマ面の強化は(80年代の戦隊と比べて)目覚しいとは言えるが
ヒーローが敵を倒すパターンそのものはそこまで大きい変貌をしているわけでなく、
巨大戦自体も、必殺技バンク以外はそこまで・・・ というのも見えてしまったのもある。
バンク以外はまるでルーチンワークのような戦いばっかりというのも良くなかった。
ようするに、戦隊に飽きたということだろう。

じゃあクウガか?と言えば実はここで、初めて仮面ライダーへ興味が動きかかっていた。
東映にしちゃだいぶ世界を作りこんで来たと、当時も今も思っているのがこのクウガ。
BLACKとクウガだけは例外的に好きではある。
とはいえなんとなく一歩引いた状態で見続けていたのも自分の実感としてあった。
それは、アギト以降だんだん悪化したと言える。

なんていうか、個人的な感覚で言うならアギト以降は「狭い人間関係の中でウダウダやってる」
だけにしか映らなかった。
大学生にはウケるんだろうな、とはいまでも思う。
社会に出ているわけでもないが、社会にこれから出なくてはならない立場の人たちにはウケるのだろうな、という作風がどうも受け付けなかった。
これは龍騎、ファイズで決定的になった評価だと付け加えておく
そこはかとなく漂う文学青年臭さ、書生臭さ、青臭さがイヤだった、とも思うし、
なんかヒーローとか正義とかを無理に考えすぎだよね・・・とも感じた。
#プロデューサーの発信などがどうも鼻についた、というのもあったろうか。


2000年代、ヒーローものを見ている側としての自分の立ち位置は、
「メインストリームとなっていきつつあった平成ライダーには最後までノレないまま、巨大戦を楽しめる(はずの)戦隊に目は向いてたものの、だいぶ飽きていた」
のだ。


ハリケンジャーでその飽きていた感覚はピークを迎え、
アバレンジャーでは「もうヒーローものも見なくていいか」と感じていたところにやってきたのが
「超星神グランセイザー」だった。

ああ、これがオレの欲しかった世界なんだな。
と、第八話を見て強烈に惹かれていったのが今となっては懐かしい思い出だ。
川北紘一の特撮は、今見てみるとまだまだ連続ドラマに対して不慣れなところもあってか
やや頑張りすぎたりもしていたものの、戦隊と比べれば圧倒的な巨大戦は
たとえその後の展開がダルくなろうとも、巨大戦目当てに見続けるには充分な理由となった。
その途中の第三十六話「さらば相棒!」もまた、自分にとっては楽しいオマケとして記憶に残る。
巨大戦だけでなく、河田秀二に期待を寄せ続けて本シリーズを追いかけていたのだから。


どれだけこまい人間世界のせせこましい諸々が眼下に繰り広げられようとも
ブレーキの壊れたダンプカーが如くに全てを荒らしメタメタにする凶大なパワー。
これは後年、ゴジラシリーズをほぼ全部見返してさらに気付かされた、自分の最も好ましい創作の世界のひとつである。
だから平成ライダーにはクウガ以外全然食指が動かなかった、と言える。

この超星神シリーズを追いかけることになったのは、それまで東映ばっかりだった自分が東宝作品の世界へ完全にシフトした事実を物語る。
もっとも、超星神シリーズの前に全話見た「レインボーマン」が完璧な伏線として機能していたのだが。
第二十二話「一億人を救え!!」には今尚心の琴線に触れるものが多数ある。
東映ヒーローにはごく一部を除き無い、ヒーローと社会の関わりのある世界。

自分はヒーローと正義、という命題にまるで惹かれない。
だが。
「ヒーローと社会、世間」という命題に関してはもっと追いかけたい。
残念だが、今そういう作品は絶無のようなのが悲しいが。
#アメコミ方面ではそれらしいのがあるとはいえ、それほどヒーロー物に惹かれてるわけでもない、ということを付け加えておく。
これに近いのが「シン・ゴジラ」というのがなんとも皮肉ではある。
ああ、東宝の世界とはそういうものなのか。

まあもっとも、ゴジラシリーズの一部とレインボーマンくらいしかそういう要素は見当たらないとも言えるが、
自分としては「東映とは全く違うもの」のある東宝作品へ転回していくには充分すぎるものがあったし
本シリーズとは別に東宝の過去作品を追いかけるようになっていく。


そしてここからは、イントロの話にも繋がることになるが・・・

以降「幻星神ジャスティライザー」「超星艦隊セイザーX」と経るにつれ、
なんだか東映作品っぽさが出てきたなあ・・・ と感じるようになっていた。
よくよく見返せば一応違いは出しているのも判るのだが、それは当時ネット上でネタにされていた
部分を追想したい程度の気持ちでは
絶対に見えてこないのでは、と言いきれる。
それだけ違いが微妙すぎるとも言えるのも辛いのだが。
#本シリーズは、当時の匿名掲示板などでの評価を今もそのまま引きずりすぎという問題が残っているのが嫌ではある。


自分が過去の更新でも書いているが、
「似たようなものなら別に東映作品か円谷作品でもいいじゃん」
という事実は、かなり厳しい問題を突きつけている。
しかし東映も円谷も同様の問題を持っている。それは
「以前の作品と代わり映えしないor劣るような内容なら、別に前のでもよくね?」
というもの。 特に現代は過去作品のソフトの充実や動画サイトでの発信もあるせいで、よりこの問題は先鋭化していると思われる。
だからこそ多少は変える工夫を絶えず行っている、はずだが。


本シリーズほど、三作全て内容面では迷走いちじるしいものもない。
その当時のスタッフが、出来る範囲内で変えなきゃ、変えなきゃと考えてああなってしまった、と思いたい。
が、個人的には「決定的に他社とは違うもの」を打ち出しきれずに小手先だけで色々いじくり倒した結果
どうにもならなくなったのだろう、と思う。


ちょっとスゴい部分を見せただけじゃダメ。
徹底的に他社作品とは何もかも違う、というものを出さないと。
事実上2006年をもってヒーローものから離脱した自分が、また見たくなるかもしれないものを提示して欲しいものである。
その意味では東宝にはかすかに期待をしている自分が居る、といえば居るのも切ないが。