2018年12月9日日曜日

日本と海外(主にアメリカ)で見る「特撮を使った世界構築」の差(試みの②)

これはふと思いついたものである。
詳しく言うなら「特撮という映像技法を用いての、空想世界を造るその前提としての世界観が、国民性によって異なる」
ということになるかもしれない。

もちろんこれは特撮を使ったものに限らずあらゆる演芸全般に関わることだとは思うが
そこまでの知識などもない。
とはいえ、思いついたものを書かないのもソンである。
長らく自分の中で飼いならされていた諸々の、その一つでもある。

前書きが長いが本題に移る。



特撮という映像技法自体、既に100年以上の歴史があるといわれる。
しかしここではわかりやすいところでRKO社の「キング・コング」から話を始めることにする。
#それでも80年くらいだろう。
自分が説明するまでもなくこの映画は20世紀前半における「特撮映画」の代表作でもある。
あらゆる形での評論がなされた映画ともされる。

一方日本では戦前戦後で大まかに分けられるようである。
戦前は大体ミニチュアを用いたりアニメーションを使ったりというものが多かったようだ。
ここでいうアニメーションは、一般的に言われる「アニメ」と同じなのだが、元来は今で言うCGのような使い方をするものだった。
アニメだけで作劇するようになり、それが定着して久しいのでその見方が消えているが本来は特撮技術の一つとしても扱われていた。
まあアニメを映像効果として使うケースは日本でも90年代まではわりと見かけたし。 マズルフラッシュとか擬似フレームとか。
#そして現代においても、かつてのセルアニメのごとくやはりフルCGアニメが作られるようになって久しい。
#このように映像の歴史は、実写への特殊技術を踏まえて独立・進歩していくもののようだ。

戦前は戦争映画によって特撮技術が用いられることが多かったようだが
戦後になるとその流れのほかに「ゴジラ」から始まった着ぐるみと縮尺をあわせたミニチュアを用いた怪獣映画などが作られるようになる。


とまあ、非常に大掴みで状況を説明したところで。

どうも日本とアメリカとでは、特撮を使った作品そのものの前提になる何かが違うと感じていた。
説明せよといわれても、これは「世界観」としか言えない。

アメリカは特にレイ・ハリーハウゼンに代表されるようにストップモーションによるアニメーションを用いた特殊技術が発達していた。
着ぐるみがないわけでもないのだろうが、デザインの融通が利きやすく演出も(時間をかける前提があるとはいえ)自由が利くストップモーションは
なるほど幻想的な世界を「あるがままに」創り出せる技術だったと思われる。

もう10年前にもなるが海洋堂の「特撮リボルテック」で「骸骨剣士」が出たことを思えば
日本の特撮ファンに対しても相当のインパクトがあったのも事実だ。
骸骨なんてそもそも着ぐるみじゃ再現不可能なわけだし。
私も、再販含め7体ほど買いました。

もとい。

どうも(特に)アメリカでは、多少ムリをしてでも「ある世界をしっかり造りこんだ上で、それに相応しい映像技術を用いて世界演出を行う」という発想があるように思う。
これは今なおCGによる特撮演出が盛んな現代でも変わらない。
もっとも、本編にもかける時間・予算・人員の規模も無視できないのは言うまでもないが。


一方の日本はどうなのかといえば。
個人的には着ぐるみやミニチュアに代表される「嘘の世界の中に現実を可能な限り盛り込もうとする」という発想な気がする。
これに関しては自分も日本人だし、様々な人が書いてきた日本芸能史や芸能論のようなものを見てきているせいか、
日本の場合は前提として「これは嘘ですよ。仕方なく黒子やなんか使って補助してますよ。それを踏まえて幻想の世界を楽しんで下さいね」
というような思想も感じる。
ミニチュア特撮で言えば黒子をピアノ線に置き換えてみればよくわかる話だ。
人形浄瑠璃を思い浮かべてもいいし、獅子舞、傀儡子まで話を広げてもいい。

アメリカは、作品世界の骨組み以上に世界そのものの造りこみを重要視した結果の映像を見せているようだ。
日本は、作品の設定や骨組みは作りこむが、世界観や世界の造りこみという点に関しては弱い。
嘘を楽しむという「共犯意識」を頼りに作劇しているところはある。
ま、雑に言うところの「オヤクソク」というものか。
という結果、映像に落とし込む際にはどうしても甘い部分が目立つのも事実としてある。
中途半端に出来のいいミニチュアやCG群、着ぐるみを動かすということに慣れているせいでもあろう。
「ね、そういう作品なんだから理解して見てね。イヤなら見なくていいから」
というような。
「甘えの構造」と言ってしまえばそんな感じもある。


すごーく雑に言い切るなら、 アメリカの特撮の使われ方は「(作品世界という)現実を創る為の技術」である一方
日本の特撮の使われ方というのは「嘘の世界を大袈裟に造るための技術」といおうか。
ま、もちろんアメリカの映画やドラマでも金のないであろう作品はほんとしょうもない映像に終始するが。
そんなんでも「作品世界を現実として創る」という前提が働いてるように思う。
日本だと「作品世界を嘘として創る」というか。
ただ日本は、その嘘の中に現実や事実・真実を「読み取って欲しい」という方向に行き勝ちではある。
#個人的にはだが、日本の文化的脈絡でキリスト教圏の人間たちの学問や発想を取り入れるのは限界がある気がする。
#モチーフ論とかあまりにも形どおりそのまま過ぎると言うか。 元気な子だから向日葵!みたいな。
#ま、キリスト教圏つっても広いので・・・。

現実をそのまま受け入れつつ、現実を分析し、切り分けた事象や現象を定義するという文化を
ある時期から育んできたヨーロッパの人間たち、そこから派生した北アメリカ・オーストラリアの人間たちと
現実と虚構がないまぜで、その中から自分たちにだけ伝わる創作に終始してきた日本の人間たち、とでも言おうか。
だからこそ創作物の前提条件もだいぶ違うように感じる。


我々日本人は創作物や芸事は全て「嘘」という前提で見ている。
ただしそこには何らかの事実を踏まえている、というのもある。
それは、あらゆる評論家や学者が言うように「時の権力者に憚って筆を抑えたり、仮名を用いたり所や時を特定しない」
という方向にも現れているのかも知れない。
#これが判りやすいのが「仮名手本忠臣蔵」である。 少なくともそこから連綿と続く「嘘」を前提とした創作とその受容の文化と言える。
で、現代もそう変わらないのが、自分の見方ではある。
まあ、だから「シン・ゴジラ」もああまでウケたのだろう。
あ、あの当時のあの災害とあの政府の・・・ という連想は案外早く観客の中での出てきて、受け入れられていた。

ゴジラそのものの受け入れられ方も、初代は「水爆実験によって放射能を帯びた恐竜の生き残り」
という設定から、何時の間にやら「あらゆる原子核のメタファー」のような扱いに変化したりしたのも
故なきことではなかろう。 ある意味民族性の成せる技ともいえる。


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ここまで書いてて思ったが、日本人といえども、自分たちが現今生活しているこの時という「現実」
を踏まえないことには創作もありえない。
現実を踏まえた「嘘」。 これは先ほど挙げた忠臣蔵もそうだ。
かつての吉原の花魁も、一度目は嘘で接して二度目からは「裏を返す」という、ある程度素で接するようになるというプロセスがあったという。
だが一晩の逢瀬を楽しむ吉原という「悪所」、まあ非現実的なものとして受容される「場」に甘えているとも言える。

「嘘」
というクッションがあるからこそ、日本人は現実に存在するあらゆるものを嘘の世界の中で受け入れられたのだろうか。
あくまで「現実」を創作物という嘘とはいえ、創ろうとするアメリカ人とは
その意味で前提がちがいすぎる。
当然それは映像作品のクオリティにも大きく関わってくる。

それは「シン・ゴジラ」の第二形態が、ファンブックが出る当初から「あれ(第二形態)のCGが雑なのは、わざとやってるから」という評価が日本のオタク界隈では盛んだったことを思うと
やっぱり先ほど自分が述べたような、「嘘」を前提に創作物を作り、見る文化が強いと感じる。
元のテーマが「現実対虚構」であることを思うと、より強調されるところと言える。
どうも現代日本人は、創作物を見るのにまず製作者側からテーマやコンセプトを提示された上で観る行為に慣れすぎたような気もする。
あとキャプションとか。


さてこの「嘘」だが、本当ならもっと突っ込んで書いておきたい。
あくまで日本の文化的脈絡からの話として、だが。
建前と本音という、これまた昔っから日本人の好きな理論とも関わってくることでもある。