2019年5月1日水曜日

ゴジラと社会、しかし個人の問題でもあるのだ

今回はあんまり取り上げてこなかった「ゴジラ」の一作から。
その実は自分が今の今まで生きてきた中でぼんやり意識していた物事のひとつを考察?の形で書いてみるだけだが。



ゴジラシリーズは、特撮作品シリーズにしては珍しい・・・ というかほぼ唯一と言っていいくらい
「社会情勢の反映」がなされている。
ま、アニメや漫画でもそういうものは滅多にお目にかからないのだが。


例えば平成VSシリーズには、時期が外れてしまったものの後に言われるバブル景気の崩壊によって
微妙にズレた内容として捉えられた「VSキングギドラ」があり、
前作「VSビオランテ」も、バイオテクノロジーの飛躍と問題提起が根っこにあった。

「84ゴジラ」ではアッサリ目だったが、終末期に差し掛かっていた米ソ冷戦の構図が反映されたり、
「対ヘドラ」でも公害問題がクローズアップされる一方、当時の若者文化も挿入されていた。
「対メカゴジラ」では日本に返還された直後の沖縄を舞台にもしている。

ミレニアム期の「GMK」も、一見オカルトテイストだが、小林よしのり「ゴーマニズム宣言・戦争論スペシャル」以降の、若者たちの奇妙な保守風のノリにある程度のっかかっていたとも言える。
#そもそも金子監督も、80年代の右・左両派の議論を茶化しながら見ていた側でもあった。
#その当時20代だった世代の感覚は確かにあった。 と言って良いかもしれない。
「シン・ゴジラ」も、今更繰り返してもしょうがないが、東日本大震災直後の政府の対応がモチーフ(というか反面教師?)としてあるとはよく言われる。

一部を取り上げただけであるが、このようにゴジラ映画はある程度、社会の映し鏡のような部分があるといえばある。
もちろん全てがそうではないが、それにしても目立つ。



で。
今回はVSシリーズ最終作の「VSデストロイア」を取り上げてみる。

「ゴジラ死す」というコピーが衝撃的であり、実際にゴジラの死を描いた作品でもある本作。
当時一度観たときは、ゴジラの死をああまで荘厳に演出するか・・・ と、感傷的な感想もあった。
今見返して思うのは、やはりここまでの日本の社会が割合反映されているのだろう、と認識を改めた。

本作上映当時にも話として出てきていた「尊厳死」の問題。
今はどうだかわからないが、当時は助かる見込みのない患者自身が
「延命はしなくていいから、楽に死なせて欲しい」
というくらいの話として取り上げられていた。

この話、日本国内の医療ニュースが行き着いた一つの結論ではないかと、自分は見ている。
ちなみに、今これに関する話は議論も深まらずに消えたように思われる。

これ以前にもガン告知の是非というものがあった。
直近で有名なのは逸見政孝氏であろう。
#氏の場合は、著名人がマスコミをとおして告知することが過剰に叩かれていた記憶があるが
#それほどに現代人は「死」を恐れ、生理的嫌悪すら催すのだろうか。

さらに前には生体肝移植の話が、そのドナーの生死判定なども込みで
いくらかセンセーショナルに取り上げられてもいた。
「脳死判定」の問題自体が今もまだ消えていないのだから、相当に長い。
#脳死判定後、ただちに「パーツ」としての臓器が摘出されるということについて違和感や拒絶感を持つ人はまだ多い。 当然とは思うが。

そして、医療技術の発展とともに現れた「延命」の問題。
子供の頃、名前は忘れたがあるドラマにてチューブをたくさん通された患者が、枕元の機械に見守られて横たわっていた映像を観てショックを受けたのを今でも覚えている。
「火の鳥」のとある一編でも、そこまでじゃないが延命の果てに悲惨な死に方をした老婆も出てきた。

つまりは、「死と医療」の問題がこれら取り上げた一連の話題の中に横たわっている。
確かに、医療技術や学術研究の発達が、常に我々医療を受けるであろう側の想像も付かない状況を現出させていることは事実だし
それで救われた命というものもある。

自分がそんな話を強く意識した初めてが「ベトちゃんドクちゃん」であり、つまりシャム双生児を分離しようという試みであった。
それは事実成功はしたが・・・。
その後、脳外科手術のいち手法として、わざと麻酔を弱く効かせた上で開頭し、麻酔が切れたところで腫瘍摘出を行う手法のニュースや
心臓を動かしたままバイパス手術を行う手法など、西洋医学を中心とした
このような医療技術の進歩は唖然とするようなものばかりだった。

そこに来て前述の「火の鳥」などの創作物を見てきた自分としては、医療技術の進歩はともかく
そこまで生かされていることが自分にとってはどうも違和感しか生まれなかった。
関心は持つが感心はしづらい、と言えばいいだろうか。
日本人的な「もののあはれ」思想なのか? そうかもしれない。  
が、どうもイヤである。  やっぱり自分だって助かる見込みがなければとっとと死なせて欲しいと思う。
ある作家は、いずれ何かの事故で植物人間にでもなったら延命せず死なせて欲しい、とごく親しい人に述べていたと言う。
そして実際、そのようになり、言うように計らわれた。

自発的な意思を表明できる状況もなく、ただ生かされることに人間は拒絶を示すものではないか。
山本周五郎「泥棒と若殿」の昔から、人間はただただ自分の意思ではままならない状態で
生かされることに関しては本質的にイヤなのだろう、と思う。
ある一線で諦めて、生活する生物のようになったとしても、そのストレスは着実に溜まっていくのではないか。
人間のまま悪魔になっていくか、人間やめて天使にでもなるか。
だがいずれにせよ、死というものに関して逃げているだけではないか。

アンチエイジングがどうとか、人生100年計画がどうとか、能天気な日本と日本人にとっては
死というものを真っ向に受け入れる余地がすっかり消え去っているように感じる。
それは元来宗教が根付かない・・・ というか、現世利益のためのそれしかなかった日本にとっては必然だったかも解らない。
#むしろ今の日本の宗教は科学と学問と金銭、であろうか。


死ぬということを、そこまで鼻息荒くしなくてもいいが少しは心に留めておくべきだろうと云っていたのは河合隼雄であった。
それほどに死ぬということが、あまりに遠ざけられ過ぎた。


さて、VSデストロイアのゴジラではどうか。
VSキングギドラからの個体であるゴジラだが、ここまでの激戦が影響したのか体内が異様に高熱化し、
それが止まらず結局自滅していった。
デストロイアによって瀕死の重傷を負わされたジュニアを残して、融解し、放射能を多量に散らし消え去る。

作中では超生命体としか言いようがないゴジラだったが、意外なことに自らの体をむしばむ熱によって命を奪われていく。
デストロイアがいくら必殺の技を繰り広げようとも死なず、
いくら自衛隊が懸命に冷却してみようとも死ねず、
自らの高熱地獄によって「自殺」してしまう。

川北紘一にしろ、脚本を手掛けた大森一樹にせよ、自分が先ほど取り上げた「死と医療」の問題が頭にあったのではなかろうか。
角度を変えれば、川北自身が「特撮魂」で述懐していたような、興行上の問題もあったかもしれない。
VSキングギドラから5年続けてきて頭打ちになってきていたVSシリーズを、ムリに延命せずに
一度ばっさりと明確に終わらせておくべきではないのか。
#当時予定されていたアメリカ版ゴジラの関係もあったとはいえ。

しかし、それでも観点としての「死と医療」は、どことなくこのVSデストロイアにあったのではないか。
メスを入れてガンを切り取ろうと、抗ガン剤を投与しようと、体は既に限界を超えており
もはや「楽に死なせてくれ」という状況に立った患者が、今作のゴジラではないか。
というのはあまりに云いすぎか?

たとえ死んだとしても、ジュニアが異様に育って蘇生したであろう、あのラストカットのゴジラ。
彼?もまた、人間やその社会にとっての脅威であろうか。
それは、今でも問題視されるガンのように。

今はiPS細胞のニュースが、世間では妙な拡大解釈のもと受け入れられてしまっているが、
何処までいっても、生きている自分そのものの生と死の問題は避けようがない。
生老病死は、どんな生物にも平等に訪れるものなのだから。
それは超生物・ゴジラですら避けて通れなかったのだ。


とまあ、このようなことをなんとなく頭に思い浮かべた平成最後の日と、令和最初の日。
どうも死ぬ、ということに過敏なお年頃のようである。
自分だって避けて通れないものなのだからしょうがない。無論この更新を見ている人たちにとっても。