2019年5月3日金曜日

シリーズ物の難しさ その②

シリーズ物の難しさ、というタイトルの更新をUPした。
それから、色々思い出したり思い当たることも出てきた。

自分がかつて好きだった、または興味があったモノたちから、もうすこし掘り下げてみよう。


それまで拙blogでは日本の創作物ばかりを例にあげて話をしていた。
が、今回はアメリカのそれ(及び工業製品)で例にあげてみよう。
一時期そういうのにカブれてた時期ってあったんですよ、ええ。

ただし、それらが日本に来た場合、自分はともかく他の日本人ファンはどういう受容をしたのか。
これはある意味でタイトル通りの問題が読み取れる。



まずはWizardryシリーズ
自分が特撮ヒーローの世界から本格的にビデオゲームへ転向するキッカケが、これだ。
ビデオゲーム好き全体の、特にCRPG好きの一般的なイメージとしては
「元祖CRPGにして、三大CRPGのひとつ」
とされる。
なお個人的には、Ultima、Wizardry、Rogueで三大CRPGだと思っている。
#が、この定義は最初の二つはさておき最後のRogueが入れ替わることが目立つ。
#現代に続くCRPGの礎の一つと考えたら、この三つが収まりがいいと思うが・・・

このWizardryシリーズへ初めて手を染めたのはSFC版#5。
それまでCRPGは、同級生が遊んでいたDQシリーズかFFシリーズくらいしか知らなかった自分にとっては
多大な衝撃を与えたものとして記憶される。
ボス・ソーンへ挑む直前の4つの問いかけがどうしても解けずに攻略本に頼った初めてでもあった。

その当時はベーマガを購読していたような子供だったわけだが、そちらでは最新作となるCDS(#7)の情報を知っては
「PCないからなぁ、でも興味あるんだけどなー」 みたいな思いを抱きながらも
しばらく後に出たSFC版BCF(#6)で遊ぶなど、後述するような「原理主義的Wizファン」とは一線を画した立場ではあった。
もちろんSFCの外伝Ⅳも遊んでいたよ。   ニンテンドーパワー版#1~#3は遊んでないけど。
SSの「リルガミンサーガ」でようやく初期三部作を遊び、
だいぶ後にPCE版#4を遊ぶことになった、と言えば、どの程度のWiz好きかは伝わりそうなものではある。


このWizardry、本国アメリカではさておいて、日本では独特なウケかたをして今に至るとはよく聞く。
ベーマガのライターでもあったベニー松山や手塚一郎の小説などの影響もあったとも言えるし
ベニ松に至っては外伝Ⅱのシナリオライターでもあったことから、余計に
「日本独自のWizardryの受容および展開」
が、90年代には既に形作られていたとは言える。

それは、原シリーズでもある#1~#5と、BCF、CDS、8で見事にファンの流れが分断されている事実が物語る。
前者をWizardryの正調であると信じて疑わないファンは多い。
そうしたファンたちの需要に沿うように、外伝シリーズが現れ、エンパイアなどの日本独自シリーズが登場していくことになり、
やがてルネサンスプロジェクトを経てオンライン版、という流れが、日本でのみ作られている。
しかし。

この日本独自展開ですら、はっきり外伝版(というかアスキーとゲームスタジオが関与しているモノ)と、それ以外とで分断している。
日本人はどうも対立下手の分立上手なのだが、こういうファンの分裂もそうした心理をものがたっている気がする。

そして彼らに共通しているのは、BCF以降の三部作を頑として認めない、認めたとしてもせいぜいが
「Wizardryとしてみなければ面白い」だの「ダンジョンマスターのパチモン」だの
ほんとに遊んだ上で言ってるのかそれ、という感想も多い。
#まあ自分もBCFしか遊んでないが、しかしここまで不寛容でもない 自分にとってはBCF以降もWizardryである。
このファンの細分化はあろうことか、コンシューマ版とPC版、さらにはApple][版、などといった分裂まで起こす。

これは流石に意味が解らない。
そして、日本の原理主義者的ファンが信じているWizardry像というのは
「ダンジョンを延々潜り、強敵を倒し、レアアイテムを集めまくるストイックなCRPG」
というもの。
これにはさらに「想像力を喚起する余地のある、シンプルなグラフィックとストーリー」も追加されることもある。
#ここ10年くらいでオタク界隈で言われる「当時の製作者たちの間でウケてたものを遠慮なくぶちこんだパロディゲーム」という視点が、カウンターになってるように見えるが
#これ自体、オタクの好きな知識自慢の域を越えていない。
#ようするに、定説を変えるところまで昇華しきれてない。 しっかりしろオタクやマニア諸君。


ヒーローもの界隈でもよく見た状況ではある。
もっともヒーローものそのものは「タイトルになっているヒーローが敵を倒す活躍さえ見れればいい」で説明出来てしまえるのだが
シリーズ単位の話をしだすと、先述したようなWizardryファンと同じ状況が容易に出てくる。
で、しっちゃかめっちゃか。
なんとなく飽きてきたら「いーじゃん今シリーズ続いてるんだし、今あるものを楽しめば」という。
このへんも、コミュニケーションを根気よく続けられない日本人的な心理ではある。


Wizardryに話を戻すと。
先ほど述べた#1~#5までを認めるタイプと、BCF以降も認めるファンの間は相当に溝も深けりゃ
壁も高くそびえたっている。
割合、互いが互いを貶しあったり無視しあうという形になる。
自分はこの両者の肩を持つ気もないが、ただわずかにBCF以降も好きだという人間のほうの気持ちは判る。
むしろこうだ。
「外伝などの日本独自シリーズが出ている状況を認めるほうが理解できない」
まあ自分も外伝Ⅳは遊んだのだが。

正調のシリーズであると言うならサーテックが関わっているシリーズが正であるわけで、
それ以外は認めないという態度のほうが本来は正しいはずなのだが、
どうも先述したような、#5までというファンがそのまま外伝に始まる日本独自シリーズを受容しているのは、
かなりの部分で、日本人独自のウケ方をしている現状を反映している。
#「ネメシス」がSSに出た当時、ベニ松がベーマガでレビューを書いていたのだが、この内容が中々に意味深であった。
#あれ手塚一郎だったかな。


こうした独特なウケ方を補強する理屈としては
「ドラゴンクエストにも、ファイナルファンタジーにも影響を与えた」
(場合によってはメガテンシリーズもここに入る)
が、これまたよくCRPG好きから出てくる。
それはまあ事実としてはそうなのだろう。 実際はだいぶ変容しているのだが。
しかし、それは日本での人気シリーズであるDQやFFの権威付けみたいな意味合いも感じて厭らしい。


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もう一つ、自分が興味を持って追いかけていたものがハーレーダビッドソンである。
俗にハーレー、といわれるバイクのアレだ。
アメリカンバイクのスタンダードと目されることで知られてもいよう。

こっちは先のWizardryに比べればやや穏健な分裂ではある。
100年以上の歴史の中で、他社の傘下に組み込まれた時代もあり、独立後にさらに知名度を上げたり
ここ20年、日本でも当然のように見かける人気のあるバイクメーカーでもある。


さてそのファン、というかユーザーの分裂だが。
ハーレーは機種が色々分かれていることでも知られる(スポーツスター、FL、XL等。詳しくは調べてもらいたい)のだが
ここからさらに、エンジンの世代というものが出てくる。
ほぼ初期と言っていいフラットヘッドをはじめ、ナックル、パン、ショベル、EVO、TC88シリーズなど
その100年以上の歴史でエンジンのヘッドカバー形状だけで
これだけの愛称が付けられているのは、自分の知る限りハーレーだけだ。
(しかもアーリーショベルとかいうのも入れるとややこしい)
なお、フラットから時系列で並べていることをお断りしておく。

特撮オタクに伝わる例えをすれば、ゴジラが作品・年代ごとでスタイルも顔も違う状況がこれに対応していると思ってもらえれば良い。
そしてオタクやマニアというのはそういう「差異」にフェチズムを持ちがちというのも以前述べた。
がしかし、バイクという工業製品となると話はだいぶ変わる。
なにせユーザーはオタクやマニアと違って実際にそれを使う側なのだ。
当然限界も知りつつ、自分の理想に近づけるために様々な工夫を凝らすユーザーが当然のように居る世界である。
自動車や自転車方面でも同じことではある。

ショベル以前は「オイル漏れを起こしやすいハーレー」というイメージが強かったようだが
EVO以降はその悪評を大幅に改善。
特にこのエンジンからは大ヒット映画「ターミネーター2」にてシュワルツェネッガーが乗っていたバイク(ファットボーイ)も登場しており
アメリカでは特に売れたようだが、日本でもかなりの人気車種となった。
実際、ハーレーダビッドソンのカタログには今なお新車が載っている。


そして2000年代からは、それまで市販では空冷しか作ってなかったハーレーが満を持して水冷エンジン車輌を市場に投入。
EVOLUTIONエンジンの向こうを張ったようなニックネーム・REVOLUTIONを冠して現れたそれは
実のところ「日本の」ハーレー好きからはイマイチウケが悪かった。
今でこそ定着もしたのだが、当時は「ハーレーっつったら空冷だべ?水冷っておめえアイデンテテー崩壊だべ?ああ?おああ?」くらいの拒絶反応が見られた。


この拒絶反応は、当時から台頭してきた日本産アメリカンバイクたちの存在が無視できなくなっていたユーザーたちの過剰反応でもあった。
# このへんは、日本メーカー産アメリカンバイクの一部が水冷で出ている事実を思うと解りやすい。
しかしハーレー自体も単に水冷っていうだけで売り出してウケるわけがない、ということは承知していたわけで、
自身が作っていた(そして日本産でもほぼスタンダード化した)空冷ハーレーとは違うスタイリングを持って登場したわけで、
実のところ興味のない人間からは微々たる差に過ぎないのだが、
解る人間には解るこの差異をもって、日本でも徐々に水冷ハーレーのユーザーを増やしていく。

残念なことに水冷ハーレー自体は2017年を最後に一度生産中止・2020年以降からは水冷が復活するとのことだが、
この水冷エンジンが登場して以降、ハーレーユーザー間でも派閥が改めてハッキリ出ることにもなる。
水冷リリース以前からエンジンの世代・マシンタイプで派閥が分かれてはいたのだが・・・。
ただ、さきのWizardryと違ってそれほど深刻な分立になっていないのがポイントか。
#まあビデオゲームや創作物とはユーザー気質がハッキリ違うのは当然ではある。 見るだけの側と、手に入れたモノを自らアレンジして使う側とでは埋めがたい差がある。


ここでWizardryファンともやや共通した、ハーレーユーザーの、ハーレーへのイメージを書いておこう。
「独特の排気音と振動」
「人馬一体型としか言えないスタイリング」
これは日本でよく聞くイメージ、と断っておく。

そして水冷ハーレー・REVOLUTIONシリーズが出た当初の、そして今も否定派に見られる意見としては
その上記のイメージがほとんどなくなったことによるものが大きい。
まあ後者のイメージはわりあい謎なのだが、前者は・・・。
実は前者のイメージすら、空冷ハーレーのシリーズ間でもだいぶ分かれている。
特にTC88以降のシリーズはややマイルドになったとも言われており、このへんもイメージがだいぶ先行してしまっていると言える。


しかしハーレーというメーカーはそもそもアメリカの会社だ。
日本人のイメージにつきあう必然性はない。
これはWizardryのサーテックもそうだったのだが。
時代の変化とユーザーのニーズの変化に合わせる・・・ それは自国のユーザーメインで、という方向性は
どこの国でも当たり前にとる戦略であろう。

そもそも致し方ない部分もあったとはいえ、長時間のツーリングに際して振動があるのは問題が多い。
バイクでなくても、自動車やバス、電車での長距離移動を経験した人なら判る。
エンジンから、または線路や道路の凸凹をタイヤが拾い、サスペンションを介して伝わる振動というのは
乗ってる人間にはかなりの負担となる。
さらに言えばエンジン自体のオーバーヒートという問題もある。
空冷よりは水冷のほうがその点は有利というのも事実だ。
それを緩和しようと思えば水冷という方向性は理解できるし、TC88以降マイルドにしようとしたのもよく解る はずなのだが。

ユーザーの求める快適なライディング・ツーリングを実現するための技術進歩を、ユーザーが拒否するのでは本末転倒じゃないだろうか。
創作物ならそれも許されるだろうが。
#まあ芸事というのは基本的にそういう宿命がある。 


以上のようなことから、どうも日本人というのは「印象で物事を受容する」フシが強いと言える
これはしばしば、実像から外れる点も含めてのことだ。
「シリーズ物の難しさ」におけるタイムボカンシリーズですらそうだし
各種娯楽や産業についても、創作物や政治においてすら似たような受容の仕方をするのが日本人気質とも言える。

まあ、だからしばしば実像から外れやすくなるのも事実だが。
バカでかい外車を日本の狭い幅の道路で走らせるシュールさとか。


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戦後、何かしら文化的な物事を、日本人はアメリカから輸入しては受容してきた歴史があるとは
自分が生まれる前から、様々なモノ書きが折りに触れていることだし、
実のところ今でもやはりそうした意見は出ている。
自分も実際、それについては同意している。    個々では首を傾げたくなるものもあれど。

がしかし。 古代中国の頃から、器用に本質というか、その学問なり技術、要素が生まれた経緯というものを無視して
目に見えるものだけを頂戴してきた日本人および日本の文化というのは、
ある意味立派な容器だが、中身の容量は乏しかったり無かったりしなかったろうか。
具体的なものには強いが、抽象的概念を考えることが不得手、とはかつて小林よしのりが述べていた。
#しばしば、インドで生まれた仏教が古代中国人によって様々解釈を加えられた後、日本に来てさらに変容したことが触れられるが、これなどはわかりやすい一例だろう。


さきに述べたWizardryや、ハーレーが、その実像を無視されてしばしばイメージ先行型の受容をされて来ていたことと、
今自分が指摘した話は、けして無関係でもない。


そういえばこういう話がある。

日本人はしばしば服を小奇麗にしている。 しかしイギリス人など主にヨーロッパの人間などでは
普段着がある程度ヨレてるのはほぼ当たり前のものとしてあるようだ。
例えば革ジャンも、日本ではテカテカで、ちょっと傷がついただけでも価値が下がるとされるが
イギリスだとむしろボロボロな革ジャンを着ている人間がいることも目立つ。
ダメージファッションというのではなく、金がないけど長く使えて、寒さも凌げるアイテムとして使い続けた結果でもある。
しかして日本人の場合は、寒さ対策としての革ジャンというより、たんなるファッションアイテムの一つでしかない。
このへん、実はオフィスにおけるスーツやシャツなども同様だと聞く。

どうも内実が無視されがちなのは、こうした何気ない部分でも出やすいようである。我々日本人というものは。
ちなみに自分なら寒さ対策やファッションで革ジャンはまず選ばない。
重いし。 冬場でも軽いほうがいいに決まってる。 着て暖かいのは当然としても。
ファッション性を度外視してでも軽くて暖かい方を、自分は選ぶ。

で、アメリカ生まれのMA-1っていいなぁとほんとこの20年思う。
ああいう機能性しか考えてないモノは好きだ。 かつてのグリースガンことM3サブマシンガン然り、
ただ頑丈なだけの「作業着」、ジーンズ然り。
無骨なものが好き?  そうね。