2020年7月31日金曜日

複雑な心境 または個人的ジャスティライザー評その2

村上謙三久というエディター・ライターが、かつて辰巳出版のサイトで連載していた
「ファン上がり記者」という読み物がある。
彼曰く、「90年代の全日本プロレスを夢中になって追いかけ、いろいろな偶然のアヤでプロレス系記者になった」とのこと。
年齢が自分より数年程度しか離れていない為、ほぼ同世代としてなんとなく親近感や世代の感覚の共有が出来る、と自分が勝手に思っていた為か
ごくたまに上記記事のアーカイヴを見ていたりしていた。





そんな彼の記事に「ニックネームは甲斐の怪力」というものがある。
プロレスラー・井上雅央の、その当時の取り上げられ方を踏まえて、村上記者の見てきた井上を記したものなのだが、
最近これをみるにつけ、自分にとって共感も同情もできることが多く見つかった。


全体的には言葉をかなり選びながらも、よくよく読めば「井上雅央は結局、ファンの期待を無視し続けてここまで来た
と読める趣旨の更新であり、少年時代の村上記者が如何に井上に期待を寄せつつも失望させられ、いつしか諦念や呆れ混じりの目線で見るようになっていたのかも書かれていた。
♯詳しいことは当該更新をチェックされたい。




これについては自分も、幻星神ジャスティライザーという作品について大いに失望させられたためか
強く共感を覚えるものがあった。
正直な話、特撮ヒーローものへの「心地よい幻想」が木っ端微塵に砕かれた元凶だったと言ってよさそうだ。




まず、最初の失望したポイントから述べたい。
拙blogのジャスティライザーレビューでも触れているのだが、ステラプレートがらみの一連の話達。
「カイザーハデスの封印のための七つのプレート」であり、これを全て破壊することがドクターゾラに与えられたストーリー上の使命であった。


この展開を見たとき、すでに東映作品の「星獣戦隊ギンガマン」におけるギンガの光争奪というストーリーラインを見ていた為
さてどうなるのかな、と思って見ていたら。


なんとまあ陳腐というか、順当にステラプレートが破壊されていってしまう展開が眼前に繰り広げられていた。
そりゃまあ、多少起伏めいたものはあったが・・・。
「一枚でも守れちゃったらカイザーハデス復活は阻止できちゃうじゃん」
という、誰でも思いつくことについてだけは一応考慮されてはいたものの
それも終盤、突如なんの脈絡もなく源太郎がステラプレートを持ち出してしまったあたりで一気に瓦解してしまう。
♯一応、ゾラのワナにかかってしまった翔太たちを救い出す為という話の流れはあったのかもしれないが、
♯しかしあんなはっきり説明的にやられても・・・。 その上唐突感が強すぎたし。




二度目はゼネラルバッカス編そのものだろうか。
もっと直接的に言えばシロガネが登場して以降である。
これについては浦沢義雄回が、シロガネ初登場回でもあったせいで当時見ていた他の年長の視聴者からは
今なお言及されがちではある。
その内容の一つに、「浦沢回以降ギャグ色が出てきた」というのがあるのだが、
実はこれは正しくない。


というのもゾラ編でのオリオン座博士回からギャグ色は既に出てきていたのだ。
しかしそれはあまりに「ハズしたギャグ感」が強かったのもある。
♯当の博士の、あまりにベタな蝶ネクタイスタイルがまさにそれ。


これを踏まえ浦沢回はもっと極端にギャグの方向に向いた、というのが自分の率直な感想だ。
これについては当時助監督だった近藤孔明監督が、宇宙船に連載していたエッセイで大体の状況は読み取れる。
曰く「脚本が来て現場が頭を抱えてしまった」という。


そのシロガネの扱いも、澪のしようもない発言に振り回されるジャスティライザー一同と、その混乱がまるでなかったかのように
困ったときにはシロガネになって強敵を倒す、という流れに収束してしまったのも落胆した所だった。


なによりカイザーハデスをここで退場させた。
これが一番良くなかった。




で、第三の失望ポイントが魔神ダルガ登場。


総評でも書いたしいまだにどうかと思っているのだが、何故ハデスで最後まで行かなかったのかが解せない。


そして、当時のネット上では某巨大匿名掲示板をはじめ個人のHP、ブログでもこのあたりから年長の視聴者は
「とりあえず放送されてました」程度の触れ方しかしなくなっている。
当時の実況すら、放送当日の夜にログを閲覧してみれば数秒に1レスみたいな間の空き方をする程度には
まるっきり注目されなくなっていたのが目に見えていた。


こうなってしまったのもダルガ登場以前から、ストーリー上でもドラマ上でもなんら注目点が作れなかったことに起因している。
当時の自分の感覚は「巨大戦さえ見れればいいやもう・・・」というものだった。
それだけ物語にはなんの引っ掛かりもなかったのだ。
それすら、シチュエーションがグランセイザー比で狭まった上に演出もいまいち安直な画が増えたせいか
「ちょっと豪華になった戦隊のロボ戦」という程度でしかなくなったのは辛い。




当時の年長の視聴者の中には、もちろんオタク的なものの見方をするのもいて
「東宝のヒーローものなんて所詮マイナー、東映の二軍」
という、最初から小馬鹿にした見方をしていたのも多かった。
自分は、その東映作品が肌に合わなくなったから、せめて最後の期待にと
本シリーズへ鞍替えしたので、彼らとは観点が最初から違っている。


その上で自分はセイザーXの最終回に到るまでついて行ったのだ。
グランセイザーこそ一作目だし、まあ大目に甘めに見ていた。
だから二作目であるジャスティライザーではかなりな期待を寄せていた。
実際、グレン他の三人のヴィジュアルも中々正統派なヒーローもの風にしてきており
「ひょっとしたらここで大化けするのでは?」
という期待を自分一人は少なくとも強く持ったことを告白しておこう。
そしてそれは、実際の行動としての関連商品購入へと繋がった。


しかし。
現実は非常に、自分にとっては苦いものとなった。
失望したと言っていい。
さらに後年DVD-BOXを買い、石井監督他のオーディオコメンタリーを見ては、正直な話
怒りと呆れの感情がこみ上げたものである。
プロデューサーは「これで東映さんと張り合える」と、放送前の記者会見で述べ、
さらに石井監督も「今までに見たことのない映像を見せる」とまで大口を叩いた。
にも拘わらずアレだったのを思うと、これはもう怒りもすれば呆れもする。
♯そのオーコメで「ああいったものの、いざ作ってみたらどっかで見たようなものばっかで…」と石井監督が述べても居たのだが。












井上雅央にせよ、このジャスティライザーにせよ、一番の問題としては
「ファンの期待を無視しつづけることが、結局のところ自身にとってはマイナスにしかならない」
という、受け手に持たせてはいけないネガティブな感情の一つを
ほぼ完璧なまでに持たせ切ってしまったことが挙げられようか。


よく言えばガンコなまでに自分のやりたいことしかやってない、と表現できるのだが
彼らに関しては、それはあくまで「大幅に譲歩して、甘く見た」場合の表現である。
全く見たままで言えば、客の事など一切考えてない仕事しかしていないということだ。


プロレスラーである井上の場合は、当のプロレス界そのものの変化によってはにわかにスポットライトが照らされる可能性もあるだろうし
先の村上記者もそこに触れてはいた。 いたのだが、若いころから見ていた本人からしたら、その状況すら苦々しい、言ってみれば多少のトラウマをえぐられるような心境だったろう。
あの更新について、自分が感じたことはそれだった。
全体に横溢していた内容の裏側にはそんなトラウマを抉られる辛さがあったのではなかろうか。




村上記者は「雅央ワールドなんて言葉、自分じゃ絶対使いたくない」と言っていた。
この気持ちは非常によく判る。
自分もそうだ。
「超星神クオリティーとかいう言葉、自分は絶対使わない」のである。
未だにこれを匿名掲示板などで書いてる輩が居るのには辟易する。


これは、あえてそう書くが
お互いに本気になって期待していたがゆえの失望と、シラケと、そして自分以外の外部のカラ騒ぎに対する憤慨である。
自分の事で言えば、当時10代以上の年齢でジャスティライザーを褒めてる人間は何をどう評価しているのか理解できない。
殆どが「ジャスティライザー面白かったよ」程度でしかないのを考えると・・・。













井上雅央も、ここ10年 ・・・つまりNOAH退団後、は妙な人気を獲得したようだが
このへんはどうもメインストリームに飽食したオタクが面白がってるだけなんじゃないかなあ、と思ったり。
なんかプロレスオタクも特撮ヒーローオタクも、というかオタクそのものがなんつうか・・・。
まあ、いいや。 世代がどれだけ変わってもオタクの本質は変わらんというのが最近の自分の観点ではある。 つまり諦めている。


ま、コラム当時の村上記者から見た雅央人気に対する違和感というのは、非常に共感も納得も出来たし。
♯同コラムで、菊地毅に触れているのだが、その当時一見似たような扱われ方をされている両者を村上記者が明確に分けて見ている点も興味深かった。
♯頑張りというか、熱意のようなものの差なのだろう。




無理して弄って面白がってみようがどうしようが、つまらんものはつまらんという実態が変わることはない。