2020年7月19日日曜日

評価基準の混乱

タイトル通りの話である。


具体的には
「商品売り上げ」
「番組視聴率」

「作品そのものの評価」
をごっちゃにするオタクが、どのジャンルにも多く存在するということ。

前者二つは客観的な指標であり、これは要するに観察対象に過ぎない。
つまり、「自分は直接それに評価をしなくてもいい」状態の指標である。
よくあるでしょう、各地方自治体が交通調査の為にカウンター持ってる人員を定期的に配備してカウントさせてるの。


商品売り上げや視聴率というのは、交通調査の結果と同じものである。
数を数えた結果「だけ」を提示したものでしかない。
これに調査員や観察者の評価を加えること自体本来は禁忌である。
♯交通調査で喩えるなら、あの車ダサいから数に加えないとか、調査員の主観を織り交ぜること。
♯こうした雑な主観を織り交ぜることが、ある意味日本国内におけるイジメにつながってもいるが、ここでは触れないでおく。




後者に関してははっきりとした「自分の主観による評価」であり、実のところオタクはこれが苦手である。
大昔から同人誌なり雑誌の投稿レビューなりを読んでても感じるが、やたらデータの話と、それを織り交ぜての
個人的「感情」しか述べてないのがオタクの特徴でもある。


これはおそらく、主にゲームやアニメ、漫画を題材にプロのライターが
「いかに対象物の情報を多く書き、いかに面白がらせようと内容をひねくり、いかに感想から逃れてモノを書くか」
に腐心した結果の掲載物に、受け手側が影響されているからだろう。
本当の意味で情報しかなく、感想が過少である。
♯これは現在も、wikipediaや各種wikiが日本のオタクにとって独特な扱われ方をしている点にも表れる。
♯それに、それら自体もデータベースでしかないが故に受け入れられていることも忘れてはならないだろう。




大昔、小林信彦が最初のスターウォーズが上映される直前の高校生や大学生の需要の仕方をエッセイにかいたことがあったそうで。
曰く
「彼女ら彼らは、その映画の前情報や知識を事前にため込むことばかりは熱心だが、肝心の作品についての感想はほぼ無い。つまり、事前情報の再確認の為にのみ映画を見ている」
(以上の要約は大津)
というもの。
♯小林信彦「時代の観察者の冒険」より「情報公害について」参照。
なお最初のスターウォーズが上映された時期は、日本においては受験戦争などと呼ばれた、
現在においても続く受験を中心とした学生文化の急成長・安定期だったことをつけくわえておく。


そして現在でも続くということは当然、世代が変わったはずの若者たち、そして世代の変わったオタクも受け継いでいる。
流石に世代を経るごとにすさまじく雑なモチーフ論などを軸に考察ゴッコで遊ぶ余裕もあるようだが。
あとは著名ライターや各種クリエイターの受け売りもまだ多いか?
♯受け売りが、結果的に権威主義になることすらオタクは判らないようだが。




こうした状況を踏まえて、表題の話に戻ると
個人の主観が強く出るはずの作品評を行う発想がないが故に
視聴率や売り上げという、たんなるデータでしかないものに頼って、
「視聴率が高くて売り上げも高いからこの作品は良い」
という異様に雑な感想モドキが生まれやすくなっている。


つまりは数値化された情報を基準として作品評を行う、というものなのだが
これが酷かったのが、2000年代の平成仮面ライダーシリーズを、当時見ていた年長のオタク連中が匿名掲示板などで触れていた頃であろうか。
あえて悪口を書くが、特撮ヒーローオタクの怨念しか感じなかった。


いっそ居直って「オレこれ好きだし、視聴率とか売り上げって言われても知らんし
とか言える程度の自分の強さがあってほしいものだが。
あるいは「まあ色々あるけど、私これ好きだから仕方ないし」と、なんとなしの後ろめたさを覚えながら作品を好きであってほしい気もする。
なお、この後ろめたさは作品がメジャー・マイナーであるにかかわらず
そもそも現実にはなんの影響も及ぼさない創作物好きである、ということを指す。
♯影響を及ぼす、などと考えてしまう時に視聴率や売り上げが混入しやすくもなる点は注意したい。




確かに売り上げや視聴率という単なる数値化されたデータを、何かしらの評価基準にしたい気持ちはわからんでもない。
自分の主観評価に自信を持つには、我々日本人はいささか自立性を欠くからでもある。
その上で、数値に絶対の信仰を持ち得てしまうのだ。
20年以上にわたってマスメディアで言及される「経済効果」とやらがまさにそれだ。


経済アナリストとかいうのもよく出てきやすい。
そういえば分析家というのは、過去の事例をため込んでいる。
その過去の事例に、現在または将来の状況を当てはめようとする。
そしてしばしばズレる。
つまり、オタクである。 現実の複雑さより、過去の安直なまでのデータ化されたものを愛でる。
♯ここで、「過去の事例に」と言ったことに注意していただきたい。




どこまでいってもデータはデータでしかない。
視聴率や売り上げを気にするのは、はっきり言って株主やスポンサー、パブリッシャーなど各種企業だけのもの。
それがいつのまにか俗流化した時、無残な評価基準の混乱を招いてしまった。




学力偏差値に、その学生自身の能力を当てはめることが実は無意味であり、
中学、高校、大学と学力が向上する可能性を、学力偏差値への信仰が殺している。
この状況下で育った若者たちが、過剰なまでにデータ信奉をしてしまうのは無理からぬこと。
実に半世紀に到る日本全体の欠点でもあるが、当然オタクの欠点としてもそれはある。


個人そのものを見ることに、そして自分という個人すら見ることに、いつしか耐えられなくなった。
そうした日本人であるからこそ、オタクも当然評価基準が混乱し続ける。




もういい加減、数値化された情報と、作品そのものの主観評価は切り分けたらどうか。
そして、主観評価することについて自信をもったらどうか?


それはつまり、作品そのものと対峙することであるのだが。


もっとも、日本のオタク連中が本当に自分自身の主観に基づいて作品評が出来るかどうかは、残念なことに疑問があるのも表明せねばならないが。
未だに多い「君この作品知ってる?」 「君どれだけこのジャンルの作品見てきたの?」
という言質がまかり通る彼らなのだから。
知ってるかどうかと、数に還元しすぎる性向については自ら意識して排除しない限りどうにもなるまい。






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ここまで書いておいて恐縮だが、よく巷でいわれがちな「客観」というもの。
これは個人的にはかなり疑問だ。
というのも、人生経験を積んでいけばいくほど「本当の意味で自分を客体化して対象物を見ることなど不可能」
と認識せざるを得ないからだ。


先の交通調査の喩えで言うなら、自分自身たまに怠けていくつか見落とす可能性はある。
たまたま服装や車のボデーカラーが、実景に紛れて見落とすこともある。
それに加え、「着ぐるみは入れて良いの?」 「外国人も入れていいの?」 「各種動物は?」ということをたとえ事前に説明されたとしても
やっぱり現実にそうしたケースを見たときにまごつくこともある。


恋愛を例にとっても判りそうなものだが、どちらか一方が異様なくらいに
「相手から極端に距離を置いて付き合う」
ことが、その相手からしたら「ただただ観察・監視されてるみたいで気味が悪い」と映る事が多いものだ。
♯もちろん、距離を置かれている方の問題はあるのだが、それは今は問わない。


そうした膠着状態が続くと、たいていどちらかが別れるものでもある。
この場合、距離を置きすぎたほうがむしろ問題である。
関係を結ぶ気がないのに恋愛関係している、ということに本能的に人間は耐えられないのだ。
この結ぶ、というのも言い合いや退屈極まりない会話や、自分にとって興味のない相手の趣味に合わせること、などでもある。
当然お互いの交友関係のクロスもはいってくる。 異様に面倒くさい。
♯まあ、だからオタクカップルとかオタク同士の結婚というある種安直な形も出てくるのだが、これは・・・。




恋愛だけではあるまい。 仕事での取引先であれ同僚・先輩後輩であれ
それらを客観視するのはまず無理だと気付く。
どうしたって個人的な好き嫌いが現れるものだ。
それゆえ、客観視というものが成立しない。客観的な立場というのも無い。


ただ一つ、客観視が成立するところがある。
それはあくまで自分自身そのものを見るということ。
図らずも他人の自分評が、自分への客観視をうながすことすらある。


つまりはどこまで行っても客観視とは、自分個人へ向き合うためのものでしかない。
当然、客観的立場とやらが他人どころか自分にすら通用しないのは、考えてみればわかることではないか。
♯客観的立場と第三者的立場も割合混同されてるように思う。