本書を読んで様々思った感想の一つにこういうものがある。
「競合して対抗しようと思うなら、下手な逆行や半端な便乗はかえって大怪我の元になる」
というものだ。
例えば魔弾戦記リュウケンドー。
これは松竹史上初の特撮ヒーローものという触れ込みが大きなインパクトを持っていたのもあったし
アイテム(カギ)を使ってのモードチェンジなどというギミックは他社でもすでに使われているものであった。
何より作品内容もコミカルとシリアスをほどほどに織り交ぜたものであり、脚本家達も武上純希をはじめ既にアニメやヒーローもので実績を積んでいた人間をそろえるなど
松竹をはじめ制作会社やスタッフも
「東映がデファクトスタンダードとなっている特撮ヒーローものにがっつり便乗しながら、視聴者が求めているものをきちっと提示している」
ことが、視聴者側からも見て取れたのは非常に大きい。
#とはいえ当時のヒーロー物事情で見てもやや古めな感も否めないのは事実だったが。
先行していた本シリーズは、東映への意識が過剰な割には表層的な差異を出すことにのみ注力していたが為に
開き直ったセイザーXで大化けしたものの、結局のところ売り上げは常に厳しいままだったという釜プロデューサーの談話を思うと
松竹と違って常に中途半端な便乗というものがネックとなっていた。
どうせなら特撮ヒーローものというジャンルに、視聴者が何を求めているのか?ということを追求出来ていたならと思わずにいられないし
全くもって残念な気持ちがある。
上記を踏まえ、ここからがタイトルに関わる話となるのだが
シリーズ展開当時、ネット実況を中心として匿名掲示板群やブログなど個人で感想を表明できるメディアで
盛んに当時の年長の視聴者(最低でも十代後半)から出た評価として
「昭和なヒーローもの」
というものがある。
バリエーションとしては昭和80年代でもなんでもいいのだが。
これは視聴者側が小馬鹿にして言っているように見えたし、自分はイヤで仕方ない感想でもあった。
が。
これ自体、実は制作者側がグランセイザーの段階でそれを狙っていたというのが本書で明らかになっている。
村石監督は「70年代テイスト狙い」と言っていた。
大川は当時のヒーロー物事情に触れつつ「無理にそこに合わせず自分たちが面白がっていたものをそのままやればいいんじゃないか」とも言っていた。
そうしてグランセイザーは作られていく。
ただ国防省の存在が単なる昭和への回帰に流れたわけでもなく、ほどほどに独特なストーリーを持っていたのも事実だったのだが
残念なことにそこに注目したかつての視聴者や本書スタッフがほぼ居ない。
そしてジャスティライザーではその昭和感という方針こそ触れられていないものの、当時の実況などでは「昭和80年代特撮」と揶揄られる始末。
セイザーXは安藤家の佇まいに始まり、当の拓人自身も市野監督が「拓人には昭和臭のある顔が必要なんだ」として高橋良輔をキャスティング。
と、ここまで書いて判るように、制作側も視聴者側も見ている方向が一致している。
では、お互いに満足出来て、かつ幸せな作品だったのか。
私見ではそうではなかったとみている。
と言うのも、視聴者側が昭和、昭和と言っているのは大抵揶揄や貶しが入っているからで
これは平成ライダーや戦隊が、90年代までとは(一見レベルであっても)変えてきている上に
当の東映自体が「ヒーロー物見るような年長の視聴者が何を求めているのか」を長らくの体感で理解していたのも大きい。
ジャンルものというのは基本、良くも悪くもドグマチックにならざるを得ない。
それは視聴者もそうだが、何より制作者側もそうなってしまうのである。
白倉伸一郎のような、基本カウンタータイプの人間が実績を伸ばしやすい土壌があるわけだ。
(白倉の場合は高寺成紀という個性があったから成立できたところが大きい為、対立できる人間が居なくなった今や十年以上に渡り手持無沙汰感が出ているのだろう)
とはいえそんな白倉自身も結局「正義」に対してドグマチックになっているのは事実。
それが実際、相対主義という形でしかなかったとしても。
さて話を戻す。
東宝やGE社、はては監督・脚本家達はどうだったのだろうかと言えば
ヒーローものに対して中核を欠いたまま、いたずらに昭和感があればいいだとか
自分達が子供のころ見たものをお出しすればいいだとかの
実に表層的な要素を出すだけに終始していたのはいかんともしがたい。
川北紘一の特撮が褒められたりもするのだが、それも東映のスーパー戦隊があるから成立していたものであり、
今となっては「もっと戦隊ですらやらないような映像が欲しかった」と思いもするのだが
もう今となっては遅すぎる。
#もっともグランセイザーやセイザーXでは巨大戦のバリエーションを提示しているので、個人的にはほぼ期待に違わなかったのは良かったが、
#それでも戦隊を引き離した独自性が欲しかったとは思いもする。
なにより当時の視聴者側は特に、スタッフが狙っていた昭和感とは違う形でそれを受け入れていた。
その内容自体は既述したので繰り返さない。
そして本シリーズ自体が、そのタイミングがモロに便乗に映ってしまっていたのも苦しかった。
東映が巻き起こしたイケメンヒーローブームという表面的な盛り上がりの中、たとえGE社はそのつもりが無かったとしても
ちょっとタイミングが良くなかったのはまあ、あった。
#ここで東宝は「スポンサーがいればやる」としたのは、いかにも東宝らしいドライな態度とは言える。
時代の流れを読めず、表層的な逆行という手段で食い込もうとしてみたところで
年間作品供給数が多いアニメやゲーム、漫画ならそれもアリと言ってもらえるが
それが非常に乏しい特撮ヒーローでやったってなんてことはないどころか玩具扱いされて終わるのは自明の理ではないか。
懐かしいものを現代に蘇らせたからといって受け手がそれを喜ぶわけでは、ない。
そして時代が動いているのは誰にも止められない。
時代が止まるとすれば、長らく続いたが故に陳腐化した果てのニューウェーブの台頭。ただそれのみ。
昭和は遠くなりにけり。