2021年4月4日日曜日

【2】東映作品への意識過剰とその結果

 本書のモノクロページを通読して、おそらく誰もが気づくであろう部分がある。

それが、「異様なくらいに東映作品への意識が強すぎる」というもの。




と、そのように指摘しておいた上である一つの視点を提示したい。


日本において創作物というものは、小説をはじめ映画、音楽、ドラマ、漫画、アニメ、ゲーム、などなど

表現方法・メディアの差はあれどそれぞれにジャンルものが存在し、今なお知らないうちに作品達が増殖しているのは誰でもなんとなくお判りのことと思う。

ある表現方法の、あるジャンル作品を創ろうとしても、既に先行した作品達の影響や要素の抽出は大抵誰でもやっているものだろうことも想像できるであろう。

このへんは単純なパクリパクラレの話に堕としてしまうと、ある作品の評価を完全に見誤ることになる。

実は、理論上パクられた側だって何かのパクりであることを排除しえないからだが。

これを「受け手が」誤魔化すときに良く言われることが「全く関係のない所からネタを引っ張ってくる」というものもあるが

それは遠回しに影響を受ける、ということを容認しているだけの話でもある。


それが創作というものの抜きがたい現実ではある。 特に作り手・送り手になれば深刻な問題であろう。


さて長々と書いたが、これを踏まえて以下本文を進める。



本書にて存在が明かされている「鉄神星戦アルマゲイナー」にしても、それがグランセイザーへと変貌する過程にしても

何処かしら東映が関わった創作物…これは当然原作モノも含まれるが…の影響が見え隠れしてしまっている。

聖闘士星矢の黄金聖闘士をヒーローに据えたようなモチーフのアルマゲイナーは、そのままグランセイザーにも引き継がれているが

このアルマゲイナーの場合はマトリックスや攻殻機動隊、そして東映が手掛けたバトルロワイヤル(ヒーローもので言えば仮面ライダー龍騎)の影響が色濃い。

やがて東宝側スタッフが本格的にかかわるあたりから上記要素はオミットされるものの、

抽象的レベルでの東映への意識… 「安易なフォーマット化を避ける」「毎週巨大戦をする必要はない」(これは三作全てに共通した点)という

競合他社としてはごく当たり前の戦法に落とし込みながらも、しかし一方で

「サイボーグ009みたいに普段はバラバラに活動しているが、何かあれば全員集まる」

と、やっぱり東映作品の影響が頭をもたげてしまっている。


これは一面無理からぬところではある。

というのも、かつての五大映画会社の中では最も若い会社である東映は、その一方で早くから新興メディア・テレビへの注力を行っていたことは知られており

実際、映画の東映というよりテレビの東映というブランドイメージを持っている人もいる程度にはこの方針を長く続けているわけで

もちろんテレビで作って来た作品数などドラマ・アニメ共に東宝他とは比べ物にならない。 原作ものも含めて。


となると当然、競合他社である東宝としてはどうしても東映の影響は排除しえないという厳しい事態が、こと特撮ヒーローものを作る場合には付いて回ってもいる。

特に本シリーズにおいては払い難い怨霊のように付きまとっていた。

会社としては東宝のパチモンとも言える東映なのだが、テレビだけに限れば(というよりテレビにはやくから軸足を向けざるを得なかった事情もあったのだろうが)東宝他より優位性を持って今に至るのは事実で。

#東宝のパチモンが東映という下りは、それぞれの沿革及び(創業時の)親会社を考えたらすぐ判る話である。 東映マークもそれとなく東宝のパチモン臭があるのはそういうことか。


次作ジャスティライザーだが、放送前の記者会見でも「これで東映さんと張り合える」とまで言い切っていたプロデューサーだったのだが

実際はその意識が過剰なあまり、何をどうしたら面白く、かつ違いが出せるのかで悩み苦しんだ挙句迷走してしまっていた。

つまり、どっかで見たような何かの塊。(これは石井てるよし監督も、ジャスティライザーDVDBOXインタビューにてはっきり認めている)

流石にグランセイザーのように具体的な作品名が出るレベルじゃないが、展開からストーリーラインから、東映作品でも大昔あったなこんなの…という

要素レベルまで影響度合いが薄くなった、といえばそういえる所はあった。


そしてセイザーX。

さらに要素レベルでは判りやすさのある動物モチーフやEDなど、東映側に一見追従しながら

やはり可能な限り違いを出そうと腐心していた痕跡が窺える。

これはスタッフを大幅に整理し、文芸の時点できっちり構成できた物を反映しやすくなった現場の事情もある。

本書では釜プロデューサーが、前作を踏まえ「四社(東宝・GE・テレ東・読広)全てが一致しない限り話を前に進めない」と、セイザーXにおける

プロデューサーレベルでの申し合わせがあったことを述べており、

これが新たに招聘した林民夫や前作まで活躍していた河田秀二がやり良い環境を作ることになっていたのではないかと推察できる。

#もっとも前作まで文芸・演出共に多かったのは、特にグランセイザー時のゴタゴタが尾を引いていた事情もあるように見受けられる。


こうして様々整理され、作劇でもようやく独自性が出だしたはずのセイザーXだが

本作を最後にシリーズは終了することとなる。

幻に終わった四作目は、企画書レベルで現存し今に至ることは本書で触れている。


こうしてみると、個人の作り手・送り手側の進歩の流れを企業レベルでやっている感もあるのが本作における東宝及び制作スタッフ達の軌跡であろうか。

創作を含む芸事をやりだした頃は誰でもそうなのだが、ある他人の影響を受けて始めるものでもあるし、これは当たり前のことでもある。

#これが世襲…脚本家や漫画家でもそうだが、その場合は初代たる家族を見てその手法なり空気感を体得しているというもの。

そして当然、最初はかなりその影響やモノマネレベルから始めてしまうのもよくある。

グランセイザーこそ、かなり慎重にそのモノマネレベルを脱しようとしていたのは本書でも判らないでもないのだが…。

企画当初が誰が見ても東映・または他社で作られた各種映像作品の影がちらついていたシロモノであったことを思えばよくここまで形に落とし込めたなとも思う。


ジャスティライザーやセイザーXはその露骨な影響の部分を排除した代り、要素だけを抽出できる所まで持って行けてはいた。

ただ、ジャスティライザーの場合当初の企画がやけに判りにくい人物相関だったりしており、

影響を排除しオリジナリティを出す段階で多少躓きが見受けられるフシもある。

セイザーXに至っては開き直りもあったものの、それがいい方向に流れたのは大きい。

しかし。


やはり終始直接競合している東映への意識はずっと残ったままだったのも事実。

これが無ければもうちょっと自由に、独自性…とまではいかないにしても

東宝のヒーロー物というものの礎になれるような作品群になれたのではないか、とは思う。

意識が無さ過ぎるのも難しい所は出てくるのだが。

ともかく本シリーズに関しては東宝やGEに東映への過剰な意識があったのは否めない。


特撮映像そのものは、川北紘一が東宝最後の特技監督というプライドもあってか

東映とも円谷とも違うものを辛うじてお出ししていた。

#もっとも本書を読むと相変わらず現場を引っ掻き回すところはあったようだが…。これについては川北に関する更新を別に作る。

本編はスタッフレベルでの迷走もあったが、セイザーXでようやく纏まりのあるものが提示出来るようになった。

それを思えば、なるほど釜プロデューサーが終了直後にも、本書インタビューでも無念をにじませていたのは納得できる。

超星神シリーズは、創作における集団制作の懊悩を一身に体現したものではなかろうか。




現在、東宝のテレビ特撮ヒーローものはセイザーX終了から15年経った現在までのその間、未だに一本も作られていない。

この間社会情勢が大きく変動し、カネばかりかかる特撮に資金を出せる大スポンサーが居なくなった事情がある。

#東宝以外でなら確かに幾つかあるのだが。


仮に運よくスポンサーが見つかった所で、それがテレビであれネット配信であれ、

また上記のようなスタッフレベルの迷走と、なにより東映作品からの影響が具体的な作品から

発生するところから始めなくてはならないのは不可避でもある。

それだけノウハウがリセットされるというのは大問題とも言える。

だからと言って、円谷・東映で仕事していたスタッフを安直に招聘すればいいわけでもない。

それは特撮ヒーローオタクが言う所の「東映の二軍」にしかならない。


辛く長い道のりを再び始める覚悟を問われる。