2019年3月23日土曜日

超星神シリーズと特撮とオレ【13】

拙blogを立ち上げてからはや6年近く過ぎようとしている。
その間、特撮らしい特撮を見たといえば2014年と2016年のゴジラくらいであり
個人的にはゴジラ中心のムーブメントのほうに気が取られている。
ということは当然、ヒーローものにかんしては追いかける気力がないということでもある。
興味を惹かれるものが無い、ともいう。


最近そういう自分を思い返すにつれ、本シリーズが開始される頃と、終わった頃の自分の実感とは
どういったものなのか、ボンヤリと考えるようにもなった。


開始した頃は・・・。
他の更新でもちょくちょく触れていたことではあるが、端的にここで改めて述べるならば
「東映や円谷とは違うものがある東宝作品を追いかける」
気分があった。
これはイコールで、東映・円谷作品に飽きていた・または見る側としては限界が来ていたともいえた。

事実、もうヒーローものを見なくてもよかろうか、という所まで来ていたのが2003年だった。
それまで録画してまで見続けていたものたちも、録画がおろそかになる所までほったらかしになっていた。
そこに風穴を開けてくれたのがグランセイザーでは、あった。

グランセイザー終盤、あと2年はシリーズ展開があると当時のホビー誌で伝えられていたし
某匿名掲示板でも速報が伝わっていた。
グランセイザーという作品にかんして、今でこそ総評で書いたような評価をしているものの
当時の自分の感覚としては
「まあグランセイザーはボロボロだったけど、二作目でもっとよくなると思おう」
くらいのものがあった。


ところが。
二作目であるジャスティライザーはなんというか、地味というか
昔の東映のヒーローものくらいのノリというか、すさまじくベタな「敵が来たからやっつけた」なノリになってしまった。
このあたりから東映作品との比較で、だいぶ厳しい目で見るようになったのはある。
ストーリーやドラマについては「こんなの今更東映でもやらんて・・・」というのもあったし、
折角いいものを見せていた巨大戦も、どうも小ぢんまりとしたものになってしまい
関連商品をはじめて買うところまで来た自分の気分は、回を追うごとに萎えしぼんでいた。

ジャスティライザー映画化、という告知を打つようになったタイミングには、他社作品と比べても
おかしい速さで次作・セイザーXの予告まで出てきた。
恐らく東宝側も、ジャスティライザーに早くから見切りを付けていたのだろう。
結局映画化はセイザーXのものとして結実することになったが・・・。
ジャスティライザー終了間際では
「三作目はどうなることやら・・・」
である。
もはや諦めの境地のようなものだった。 実際それは、セイザーX放送開始から数話まで引きずった感覚でもある。


そのセイザーXはどうだったか。
子供番組だからしょうがない、というオタクの擁護というか理屈もあるだろう。
だが自分は、あの映像込みのEDや今日の一言についてはいまだにクビをひねるところがある。
そこまで露骨に幼児狙いせんでも・・・。
それこそ東映も、円谷もやってないところまで開き直っていた。
実際あれらの要素は匿名掲示板群でもネタにされていたものでもあるし。

ストーリーやドラマが徐々に深化したものの、今度は前二作と違って明らかに引き気味で見ていた自分が居た。
この作品に限って、比較的マジに見ていたであろう当時の年長のオタク連中のはしゃぎぶりを見ていたのもあった。
巨大戦だけは楽しみにしていたものだが、スケールが小さいんだか大きいんだかわからんストーリーと
前二作よりはマシになったドラマ面についてはなんとなく引いた目で見ていたのだ。

終わってみれば。
「お疲れ様でした。」
くらいの感想しかなかった自分も居たし、「もうちょっと見ていたかったかもしれない」くらいの気分もあったかもしれない。
そもそもセイザーXは3ヶ月短縮されていた事情もあり、そこもいまいちノレなかったところだった。


終わってちょっと経ってから思ったことは。
「もうヒーローものも見なくてよくなった。」
であった。 ただ実際はレスキューフォースを追いかけたのが最後と言えるだろうか。
映像じたいに対する興味こそ残ったが、積極的に特撮映像を追いかけるほどの気力も失われた。
そんな矛盾を抱えて、今もある。


それでも終わってしばらくの間は、無邪気な気持ちでこのシリーズを好きで居られた。
それを10年近くも抱えるのが辛い、となって、拙blogを立ち上げた。
ここで言う無邪気、というのは解説が要るだろう。

誰にでもいろんな物事で感じるが、どうも日本人は
「終わりよければ全てよし」
の発想が根強い。
これは、終わったことをいつまでも引きずるな、ということでもあるし
事実戦後からの日本の発展にはある程度寄与した気質ともいえる。

がしかし、この考えの難点は「反省する能力を著しく削ぐ」というものがある。
「振り返って再検討する能力がなくなる」ともいえようか。
だから日本の現在の不景気を語るときに、物凄く単純な形で「バブルが悪い」「政治が悪い」としか言えなくなるわけだが・・・。
「一億総○○(適当な字句を入れて良い)」だったり
「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」だったり。
民族全体の問題にするにしても異様にイージーな形に還元することに慣れすぎた。
単純なくせに、数だけ多い。


何故そう考えるようになったかといえば、拙blogによって本シリーズを再度見直したからだろう。
最近は自分の更新も見直すことがあるが、今の自分から見てもまだ能天気さの残るグランセイザーを経て
ジャスティライザー、セイザーXと段々厳しい目で見るようになったと感じられる。
再検討・分析の能力を雑な形ながら得られたからかもしれない。
ヒーローものから離れてからは様々な本を読むようになったのもあるだろう。
人間は残念ながら変化するものである。
同じことばかりやっちゃいられない。 テンプレトークなどは最たるものだ。

その上で、自分は根本的にはオタクになれないという事実も突きつけられたわけ。
非常に残念に思うが。
同じことばっかりやってる・言ってる彼らが信じられない、という意識にもなったとも言う。
そうした彼らを、自分はかなりの部分で反面教師としているのはある。申し訳ないが。


工夫が欲しい。 現実に倦まない程度の工夫というものが。
同じセンスの連中とつるんでるだけじゃ絶対に生まれない。
と、映像の世界や創作の世界から離れ、様々な事柄の本に触れるようになってから思い知らされた。

一人でもっとじっくり考えなきゃいけないことを後回しにしてたら、自分というものが安直になる。
#ま、このあたりは60年代以降の日本人気質へのアンチテーゼかもしれない。
#勉学にかまけすぎて、安易な娯楽に逃げた結果自分自身を掘り下げる行為を後回しにした文化が長すぎたというか。