2019年3月27日水曜日

興行論のようなものを試みに②<ライヴか、TVショーか>

前回の更新をUPして以降、自分の中で様々な「見世物=興行」についての諸々が浮かぶことも増えた。
それは実例を伴ってのものでもある。
自分自身、イベントを直に観覧することもある為、実感もある。
とはいえ過去のものは映像で見るほか無いのも事実だが、それらをひっくるめて
思ったことを述べておく。



先ほど見世物=興行、と述べた。
この言葉に拒絶反応を示す人も居るかもしれないが、事実はそうなのだから受け入れるほうが良い。
そもそも見世物(興行)は、木戸銭(入場料)を払って貰い、見てもらうのが目的である。
いくら送り手側、つまりプレイヤー個人がスポーツマンシップやアスリートとしての矜持がどうの、作家性だのアート性がどうのと述べようと
金を払ってみてきている側にしてみたら「払った金の分くらいは最低限満足したい」というのが本音である。
ここで「満足させて欲しい」と書かないのは、ちゃんと理由もある。
見に来ている側もまた、興行を盛り上げるピースだからだ。
これはプロスポーツ興行やポップスのライヴ興行に行ったことがあればよく判る。

そもそも高邁な理念をプレイヤー側がいくら述べようと、製作者側がウンチクを垂れ流しても
見に来ている側からしたら「その場でお出しされたものが全て」というのが、疑いの無い事実である。
そんなに理念理想や設定、裏話などを語るのががお好きなスタッフやプレイヤーが多いなら、金を取らない形でやればよかろう。


で、本題。

この興行というものは先述のように金を取ってみてもらうことがメインとなる。
音楽、スポーツ・格闘技、演劇、映画と多岐に渡る。
そしてタイプは大まかに二つに分かれる。

1)吉本新喜劇型・・・ テレビ放送目的で作られる舞台。
2)松竹新喜劇型・・・ 舞台自体を見てもらうためのもの。

これは吉本、松竹両社の興行会社としての性格の差もある。
漫才メインの吉本と歌舞伎興行などをメインとした松竹の差、でもある。
このタイプの分け方は、関西圏であれば理解されるが、念のため関東圏の人々にも判る様に
ちょっとした解説も付けておいた。

1)に該当するのは新日本プロレスや東映(の、テレビ偏重の方向性)であり
2)には全日本プロレスや東宝が該当する。

とにかく大会やテレビの劇場版を見てもらうために、テレビ放送に注力したり、メディア露出を積極的に押し出すのが1)の路線でもある。
これは吉本芸人や新日のレスラー、東映のヒーロー物キャラなどが度々メディア露出している事実を思えばすぐわかる。
#ただし吉本に関しては、新喜劇ラインの芸人とそれ以外のラインの芸人と分かれている事実もあるが。

一方、2)の路線というのは何処まで行っても「実際に興行を見ていただくほかありません」という形になる。
相対的には1)に対して不利な方針とも言える。
ただし、興行そのものが満足のいく形であれば効果は絶大である。
これは東宝が20年来日本映画興行のトップランナーになっている事実を思うと判る。

そして、多くのプロスポーツ興行や音楽興行、舞台興行などは実際2)の形式に寄りつつ1)の要素も混ざっていることを考えると了解できる。
プロ野球が、規模はかつてより縮小したものの今尚地上波のテレビやラジオで生中継している事実を思えばよろしい。
ハイブリッド型というのが今の興行の主体ではあろう。
実際東宝も2)型だが、1)型の要素も持つ。
#これは東映のように主力番組がテレビの劇場版ばかり、というわけでもないことに注意を要する。

雑誌や新聞、TV、CS放送、ネットなどなどあらゆるメディアを駆使してでも
興行を見てもらわないことには、興行で生活している人々は生きていけない。
我々観客は、「楽しみ」という期待を買う。
彼らは楽しませるためにあらゆる手練手管を駆使してでも自分たちの「芸」をお見せする。
スポーツ、音楽、漫才、映像、大道芸、絵画、造形、エトセトラ。
自分たちの芸で金を取るのがプロフェッショナルというものだ。

無論それらには関わろうとするパトロンもいる。
プロデューサーという役職を持った山師も当然多い。
彼らとて金と名誉、出世といった現実的な成果の為に夢を見せる人間を飼っている。
音楽プロデューサーなら子飼いのミュージシャンやスタッフでもいいだろう。
ドラマや映画のプロデューサーなら子飼いの脚本家や監督でもいい。
中世における芸術の勃興に関与していた、貴族などのパトロン文化は今尚生き延びていると言えるだろう。
ヨーロッパだけでなく日本でもそうだったのは観阿弥・世阿弥などでもよく判る。

プロという言葉が、様々余計な観念をくっつけられて、実像以上に重苦しいものになって久しい。


さらに2)に近い形の芸事として、落語家がいる。
一応テレビやラジオでネタを披露したりすることもあれど、彼らも基本的には「寄席やホールなどの地方営業に来て欲しい」わけで。
特に東京や大阪においては、寄席だけのネタを出すこともある。
こういう「ここでしか出さないもの」を提供できる状況のある娯楽というのは、幻想を創るという意味でも強い。
常打ち小屋を持っている芸人やミュージシャン、役者が強いのはこのへんにも起因している。
かつてビートたけしが、浅草フランス座出演の芸人たちの「伝説」を若い頃から色々述べていたことを思い浮かべても良いが、
「そこでしか見れない芸や芸人」というのは、イベントを観にいくという意味において強い。


映画も実はこの要素が強いはずで、だからこそ「ライヴイベントとしての映画興行」という新しい観点もここ10年くらいで生まれている。
爆音上映しかり、観客が声を出してもいい上映しかり、映画の進行に合わせてシートが動いたり水や風が出る仕組みしかり。
ライヴビューイングというものも徐々に浸透しつつある。
#パブリックビューイングと本質的には一緒。 映画館でやるかそれ以外の場所でやるかの差である。

イロモノ気味と言えばそれまでだが、映画興行もテレビとは違う形の「見世物」への回帰をしているといえそうではある。
まだ都市部でしか試みられていないこれらだが、「東京や大阪までわざわざこの形式の上映を観にいく」ために出かける人間と、そのニーズを生み出せれば
まだ映画は興行として充分やっていけるんじゃないだろうか。

こういうことは、ポップスのライヴなどを思い起こせば判る。
あの土地でしかあのバンドやミュージシャンのプレイが観られない!というのは強い訴求力がある。
事実自分も復活したGODIEGOの東大寺ライヴや池袋三年連続公演をわざわざ観にいったくらいだ。


考えてみればレンタルしたりアマゾン他で配信されている映画を手軽にタブレットやスマホで観れる時代なのだ。
テレビ放送で映画を観るのとそう変わらないところまで映画作品自体が手軽になったのならば、
映画館で観る映画というものは、当然ながら個人が部屋や屋外で見るそれとは違う価値を客に提示しなくてはなるまい。

かつては東宝系・松竹系・東映系という映画館興行の形があったが、それも2000年代には変化を余儀なくされたのをよく知っている映画ファンも多いだろう。
この系列館でしか見れない形は、先ほど自分が指摘した「常打ち小屋を持つプレイヤーたち」とまったく同じ強みを持つ。
シネマコンプレックスによって、形の上ではおおむねそうした特色が消滅しているが
そうは言っても、東宝や他二社もシネコンを経営している事実を思うとまだ特色の残滓が残っているとはいえる。


ネット実況というスタイルが定着したとは言っても、これはあくまでテレビ放送に対してのものがまだまだ主流で
映画やライヴ、舞台などではその手法があまり定着していない事実もある。
#twitterなどでそれに近いことをするくらいか。
私見では、ネット実況自体がそもそも「間」や「空気」が分断される・・・ というか舞台やライヴならではの空気感自体がないテレビだから通用する手法なのだろう。
まだ配信が一般化されてなかった2000年代、ファン間で映像ソフトを用意しあって実況的に楽しむ、という楽しみ方があまり定着しなかった事実もあった。

ネット実況という方法も、結局のところテレビ放送という「放送するまで何があるのか判らないもの」を不特定多数の人間たちと
雑談して楽しもうとするものである以上、ある意味ではライヴや舞台の観覧と似た部分はある。
が、決定的に違うのは「場の空気」であり「演者との呼吸や間」である。
昔、上岡龍太郎が評していたように「テレビは舞台の空気までは送れない」のだ。
以前、ネット実況にかんする更新でも書いたが。
昔からあるパブリックビューイングや、現在のライヴビューイングなどが近いといえば近いが
これもカメラワークという要素が、舞台の空気を殺ぐ作用があることは否めない。
やはり、現地で見るのが一番だろう。
#これは吉本新喜劇を実際に舞台で見るのと、テレビ放送で見るのとで感覚が違うのとリンクしている。


しいて言えば、ネット実況は「いかに多くの視聴者と、同じ番組を一緒に観ながら雑談できるか」というところに楽しみ方のウェイトが寄っている。
この場合、番組自体の内容はまるで問われない。
自分が見たい物事のために観にいく舞台やライヴ、映画と
自分がコミュニケーションするのが楽しいからやるネット実況の差、ともいえるか。

テレビは廃れたとか言われ勝ちだが、ネット実況というスタイルのおかげで命脈が保たれているところはある。
実況とはやや違うが、リアルタイム感想を番組のタグを付けて書き込み、それが番組内で反映されることもこの10年くらい定着している。
#主にニュース番組で見る手法だが。
ある意味、テレビと視聴者のコミュニケーションがさらに発達したのが現代だろう。
生放送中にFAXやダイヤルQ2のシステムを使っての感想の反映というのも昔からあったが
よりそれが身近になったというか、やりやすくはなった。


音楽全般やプロレス、落語なんかは結構わかりやすい。
ソフトで個人的に楽しみつつも、実際に会場へ足を運んでライヴを楽しむ。
この「個人的に閉じた楽しみと、不特定多数と開かれた現地で楽しむ」という二つの要素がある娯楽は、実際強い。


こうして色々書いてみると、どうもテレビや映像ソフト、配信を用いた、閉じた環境で映像を楽しむのと
映画館や舞台、会場でライヴの形式で観覧するのとでは明確に違うが
それがお互いを食い合うことはまずない、とは言える。
マナーの問題という所で辛うじて差異が出ているからだろうが。

今回はやや散漫な更新になったが、もうちょっとこの興行論的なものは突き詰めた話を見て見たい気がする。
自分にとっても、興味のある話ではあるし。