2019年2月10日日曜日

チャンスをフイにする、ということは

思えば拙blogでは、散々素人視点での本シリーズの考察もどきを書き散らした。
その中で、幾度となく繰り返している言葉が幾つもあった。
それに今また触れるのはたやすい。
が、わざわざ己の傷口というか、感傷を新たにするまでもないと思い、今の今までそのままにしていた。


最近はちらほらと(といっても月のPVはたかが知れている)拙blogを見ている人がいる事実もあり、
なんとなく複雑かつ、不思議な思いを膨らませているうちに
ここ最近、なんとなく感じたことを今回書いておく。



超星神シリーズ。
簡単に言えば「コナミが三年、特撮ヒーロー用に用意した枠で作られたシリーズ」
となろうか。
今でもこれは、東映でも円谷でも喉から手が出るほど欲しい好条件と言えよう。
実際の制作費がどの程度かはさておいても、だ。

2000年代前半の、イケメンヒーローブームにのっかかった事情もあった。
オタクたちからしても、21世紀になったのだから何かしら新しいものを求めていたところもあった。
幸い?某巨大匿名掲示板などの台頭によって、ネット実況という視聴スタイルも生まれた時期でもある。
ADSLをはじめとした定額接続が普及したことも追い風になっていた。
個人HPでの番組ウォッチによるイジリという文化も芽生えていた。某ネットアイドル12歳とか。
番組公式HPとその公式BBSが活況を呈していたのもある。
つまり、作品そのものをコアとして全国の視聴者があらゆる感想やネタを放出・拡散していた時代であり、
若干整理されたきらいはあるにせよ、今もなおネット実況や放送後に感想・ネタが拡散していく流れは続いている。


2000年代前半当時、この状況にうまく乗ったのが東映で、なんとなくまごついていたのが円谷ならば
乗ろうとして、結局翻弄されただけなのが東宝ではあった。
以前の更新でも触れたはずだが、イケメンヒーローブームという流れを読みきってなかったとも言える。
川北紘一を擁すればあるいは、という欲目があったのだろうが、
その川北自体が、少なくとも当時30代以上のオタクからは「光線ばっかり、派手なのばかりで内容がない」などと貶されるほどだったし、
なにより東宝のテレビ特撮ヒーロー自体がマニアックなもの、マイナーなもの扱いのままでもある。
#最後に関しては今もだが。

このような逆風まみれの事実を、一体東宝はどこまで読みきれていたのかという疑問が、今はある。
そもそも用意してきた演出家・文芸スタッフからして実績という意味でも微妙なメンツ揃い。
村石監督が唯一ヒーローもの慣れしてるのか?というくらいで。
ロートル新人の河田秀二はそれなりの掘り出し物だったとはいえ、それでも約三年やり続けることがそもそも無茶としかいえない。

その河田自身、四作目の企画を出すところまで行っていた、とかつての日記で述べていたのだが・・・。
川北も生前「もっとやりたかったね」と述懐していた。
東宝の釜プロデューサーも「終わったのは残念」と、続ける意思のようなものを少しだけ見せていたのが、終了直後の某新聞の記事として載っていた。
#その記事抜粋画像を持っていたのだが、残念なことにHDDクラッシュにより消滅した。
#もっともコナミは、同記事において「ノーコメント」とした為、このあたりの温度差は当時も今も物悲しい。


少なくともメインスタッフの一部は、思惑はさておきずっと続ける意思があったようだ。
だが。
どうも一作目のグランセイザー(Pはこれのみ石井氏)からして、「いやいや三作だけで終わらせるわけないじゃん?四作も五作もやるよ!」というほどの
意気込みが作品から伝わってこないのが悲しい。
コナミも全くアテが外れた形だったろうことは想像に難くない。

なんとなーく、ボンヤリしたテーマとネタだけでボンヤリと作っちゃったというのがグランセイザー。
これについては、シリーズ構成が機能してないという事情もあったろう。
状況が判らん以上想像で話をするほかないが、プロデューサーなどからなんとなく振られたネタを
現場でなんとなく形にして、なんとなくOKが出て、なんとなく撮っちゃったような感じ。
#この傍証が、赤星昇一郎がオーディオコメンタリーで発言した「あの設定(カツラ)意味あるの?」というもの。
#多分始終このノリで撮られたんじゃないのか、とおもわなくもない。
#そもそも石井プロデューサーは、しょうもない部分の設定ばかり細かいだけという問題児でもある。


プロデューサーが変わってからは、ある意味現場任せにでもしたのか
良くも悪くも開き直った造りになっていったのがジャスティライザーとセイザーX。
多分、釜プロデューサーが「最低限小シリーズの終りは次シリーズに繋がるように」くらいのサジェスチョンは入れたはずで
それがグランセイザーとは明らかに違う進歩に繋がってはいた。 唯一といっていい。
そもそもグランセイザーの時点でそれくらいやってろよ、と思うが。
#第二部終盤にやっとウォフ・マナフの名称が出てくるくらい。
#今思うとグランセイザーは「赤影」とか「アイアンキング」の劣化版のような雑な構成でもある。


ヒーローものに限らず、あらゆる創作物はプロデューサーの「色」で、作品の「色」もかなり変わるのは事実としてある。
それはプロデューサーが集めてきた各種スタッフからにじみ出たりもする。
この超星神シリーズですらそういう現実から逃れてない。
そして何より、三年も枠を貰っておきながら何の戦略性もなく、ボンヤリと番組を作っただけの東宝にはいまだに首をかしげるところが多い。
それは、まず当時の年長の視聴者が表層的なネタをいじるだけで終わった事実を見てもそうだし、
「大人が懐かしがることもない」シリーズのひとつに成ってしまってもいる。

いや、強いて言えば自称オタク・マニアが時折ネット上で盛り上がるくらいか?


テレビドラマ自体はそこそこ本数を手掛けているものの、松竹や東映と比べるとこれ、というシリーズに乏しいのが東宝のドラマではある。
#松竹や東映がテレビに比重をかけてた事情もある。
太陽にほえろ!とトリックくらいしかパッとは出てこないのも辛い。
ということは東宝自体にテレビドラマ制作のノウハウがない、とも言えるところはあるだろう。
ハッキリ言い切るのはかなり問題があるとはいえ。

そこにきてヒーローものという、より特殊なジャンルのドラマである。
せっかく降って沸いたチャンスをうまく活かせなくて当然であろう。
このやってきたチャンスを巧くつかめずに自沈した、というのは先の河田秀二もそうだった。


もっとも、現在の東宝はこうした状況を若干でも改善しようとしているように見える。
ゴジラを題材としたクリエイターオーディションを行っているのもその一環だろう。
多分入口はゴジラシリーズでも、これはと思った人間を囲って
別の映画やテレビ作品、その他東宝の関わる作品たちに関わらせようとしているのかもしれない。
それはそれで結構なことだと自分は思う。
#というか、それくらいは考えていそうなものだが。

果たして今後東宝は、テレビに限って言えば超星神シリーズの反省を踏まえた映像作品を提示できるのだろうか。
直接制作に関わらないにせよ、制作会社の手綱を引くくらいは出来ないものか。


運とはまさにボールのようなもの。
何処へ飛んでいくのか判らない。
また、いつ飛んでくるのかも判らない。

だから、常にアタマを使っとくんだな!