2019年2月13日水曜日

「変えてるんです」VS「変わって無いじゃん」

久しぶりに某パチ四駆の更新を復活させておいた。
他の更新もそこそこ読まれるようになったからだが。
それまで何故かその更新ばかり読まれていてちょっと疑問があったので2年ほど閉じたのだ。

で。
その2年以上の間に、バンダイはクラッシュギアにダンガンレーサーのような風味を取り入れた「ゲキドライヴ」をリリースし、1年ちょっとで展開を終了させていたそうな。


今回の更新は、本シリーズと絡めてこの事実に存在する問題・・・
「変えてる」VS「変わってない」を述べておく。
これはいいかえれば「送り手」VS「受け手」の一形式とも言ってよい。



ゲキドライヴ。
自分も実は買うところまで行きかけたため、リリース当初はそれなりに情報を拾っていた。
それまでのパチ四駆とは違う、というのが自分の見解。
単三から単四電池、モータも小型化し、子供に遊びやすいサイズにしたあたりは悪いものではない。
それを踏まえルールから何から変えてきたな、とは思った。
元玩具・フィギュアオタク的視点で見るならば、クラッシュギア風モータライズ玩具であろう。
#そう断定したからこそ、クラッシュギアに興味のない自分は買わなかった。


がしかし。
ミニ四駆マニアやオタク、はてはバンダイ玩具オタクなどからは
「パチ四駆じゃん!」
「何が違うのかわからん」
という意見が圧倒的多数であった。

これはどういうことなのか。
一方のバンダイの宣伝などを見れば、ミニ四駆に連なるモータライズ玩具というアピールは一切していないにも関わらずだ。
受け手の一部からはルールからして違う、という冷静な意見もあったのだが。


まず、パチ四駆と断定した多くの受け手の判断箇所や心理を個人的に分析すると――――――

・またバンダイが性懲りも無く競技系ホビーにやってきた
 =前例(80年代、2000年代)を踏まえている
・ちょっと変わったように見えるけど、結局自動車型で、電池もモータも使う
 =ミニ四駆の印象にかなり引きずられた類似点の抽出
・どうせすぐ終わるし、タミヤに対するバンダイの嫌がらせ
 =特に2000年代のバクシード展開時を踏まえた嫌悪感の露出※
  ※噂レベルだが、バンダイがタミヤに参入を呼びかけたという話もあり、ミニ四駆オタクにはよく知られているため余計悪印象に繋がっている。

大抵この意見は、ミニ四駆ユーザというかマニア・オタク界隈を中心によく見られた。

だが多分、当時のバンダイ担当は「ミニ四駆とは何もかも変えてます!」くらいのことは言うはずだ。
ここに、受け手と送り手の埋めがたいギャップというものが存在する。
もっとも、狭い娯楽ジャンルのムラだけで存在するギャップとも言えそうだが。


実は先ほどの分析は、そのまま超星神シリーズ展開時の年長のヒーローものオタクの意見とカブる。

・また東宝が性懲りもなくヒーローものをやっている
 =70年代以降の展開を踏まえている (上に、単発で終わっている)
・ちょっと変わったようにみえるけどパクリじゃん
 =特にグランセイザーは、ロクに見てもないのに龍騎のパクリ扱いされていた。某プロデューサー含め。
・どうせすぐ終わるし、バンダイの売り場を圧迫するコナミの嫌がらせ
 =新興玩具メーカーであるコナミに対する露骨な嫌悪感

で、これもやはり先ほど挙げた「狭い娯楽ジャンルのムラだけで存在する」現象でもある。
しかもバンダイの競技系ホビーも、東宝のヒーローものも、多くの年長のオタクからは
冷笑を浴びせられていたものばかりである。

もすこしマクロな視点で競技系ホビーやヒーローものを見下ろせば、「どれも変わらんのになにをそんなに騒いでるのか」という人たちも居る。
そういう人たちは今回触れておかないが。


ここまで挙げておいて、本論に入ろう。


この「送り手」「受け手」間の埋めがたいギャップというのはどの世界・製品にも存在する。
友達同士や恋愛という身近な例で言ってもわかりそうなモノである。
何かを伝えるという「送り手」の発信は、何かを聞いた「受け手」の受け取り方を制御しえない。
誘導することは出来るが、受け手も人間である以上誘導したとおりに受けてくれるわけがない。
人間というものは、君も含めて想像以上にデキの悪いものなのだ。

バンダイで言えば毎度毎度競技系ホビーに手を出しては轟沈する印象が強いのは事実としてあるし、
東宝のヒーローものも同様である。
が、その視点じたいはオタク・マニア視点であって、だいぶ特殊化されている。
#オタクの中では一般的、という屁理屈もあるだろうが。


受け手というものは、それまでの自分の遍歴や、送られてくる情報たちの捨象などを経た「経験」というものを持っている。
そして、大勢の受け手というものは思った以上に「見た目だけ」で判断するものだが
これは結局「経験」で制御された視点である。

サイバネティクスの基礎理論、とも言えるし、ホロン構造、とも言えるこれは
受け手・送り手の関係性を超えたところで人間というものは、自分の判断を自動化してしまうものだ。
類型化してしまい、体系化してしまい、判断をその中でのみ自動的に下す。
よって自分は、知性や理性で人間がモノをなんでも考えられたり制御できる、ということは
限定付きでしか信じていない。
(限定、というのは、自分が局外者である前提でのみ知性や理性で物事を制御できる、ということだ。 おおなんという矛盾。)

ツイッターやチャットなんかでも判るが、思いのほか人間はその場のテンションなどでしゃべってしまうものなのだが
これも結局自動化してしまっているからだ。


実際自分だってその場の思いつきでなんとなく仕事を進めることもある。
だが、それはそれまでに培った経験、すなわち情報の集積から適切な手法を導き出しているからだ。
会話でもそう。 そして受け手としてモノを見るときでもそうだ。
そしてそれは大体「自分にとって」巧く行っている。
が、それは受け手にはどう映っているのかは全くわからない。
今のところ仕事は、手が遅いということ以外は特に問題が無いようだが。
これは自分含めた人間という出力装置の出来不出来の問題なので仕方ない。


が、念を押しておくと、それを受け手がどう捉えるのかは別問題である。

先の仕事の例なら、「まああんたは仕事だけはちゃんと遂行してくれるし。 でももうちょい早くね」
くらいのことは毎度言われるが、これはイコールで「スピードさえあればなあ」と言われているに等しい。
ということは、仕事という全体においては自分には問題はおおむね無い、ということだろう。 スピード感という部分にネックがあるだけで。
#もっとも日本人は不思議な民族で、他人事の時だけ部分がダメだと全体がダメ、と言う人が多い。

チームで動く組織はこういう、実利の部分で判断しているので摩擦は意外なくらい少ない。
あいつが気に食わないから、あいつの作った作品が嫌いだからどうの、というのは幼稚な組織でしかない。

だが利害関係は精々、受け手側がカネを支払うという程度である「送り手」「受け手」の関係だとどうなのか。


ただ、ここまで言っておいてなんだが、受け手のこうした自動的に下す「パクリじゃん」「なんも変わってないじゃん」に賛成してはいないということだけは
ハッキリお断りしておく。
それは単に自動化された判断に自分が負けているだけだ。

自分の頭で判断する、ということは自動化されている自分の判断を打ち破ることにある。
特に、ネガティブなそれを打ち破るのは骨かもしれないが、確実に違う景色が広がることは間違いない。
のだが、それは中々出来ないということも付け加えよう。
自分がかつてレインボーマンによってヒーローものに対する視点・価値観を壊されたような事態が、
その後自分に限って言っても20年近く経ってもない事実から申し上げよう。


とはいえ、視点を変えようという行為自体はするべきだろう。
ま、変わるものでもあるのだが。 自然と変わる前に変えさせられることもある。
状況が変えさせてくれることもあるのだから。