2019年2月9日土曜日

ヒーローの限界

先にはっきり言っておく。
自分は正義という概念にはなんの興味もない。

それは、2000年代前半に東映のプロデューサーを初めとした製作スタッフが、考え方はともかく「正義を売り物にしていた」事実を目の当たりにして以降、
個人的には随分シラけさせてもらったことが大きい。
もとから正義、というものが自分に馴染まないのも大きかったのもある。



正義に懐疑的な人がこう言った。
正義の反対に別の正義がある。 
ヒーローは多様であれ。混沌であれ。 
大人として生きていればごく当たり前の話に関心する人々。
日本人って能天気だね。 他人事だから。

別の正義を持つ人においてはこうだ。
イズムを振りかざす。
だがそれらは分立しているだけにすぎず、対立まで昇華していない。
これもまた、日本人気質である。

2000年代以降の東映自体は、商売道具である「正義」で自家中毒していたのだと自分は断じている。
今もそれは変わらない。
会社で言うのがダメなら、プロデューサーや脚本家、演出家でもいいだろう。
まあ、正義というものは現代日本においては麻薬や覚せい剤のようなものである。


このようにシラけきった自分だが、ヒーローものに今も関心を抱くテーマがある。
それは
「ヒーローと社会」であり「ヒーローが出来ることの限界」
である。

このテーマを意識させられたキッカケは「レインボーマン」という作品に出会ってから。
2000年の夏に出会って以降、レンタルビデオで全話見返し、DVDを買ってまた何度も見返したほどに
自分にとってこの作品の中に内在する「問題提起」が、今なお乗り越えられない壁として君臨している。
2010年代に入ってやっと、上記二点を言葉に出来る程度までは壁を昇ることが出来たろうか。


今回はヒーローの限界について自分がどう考え、どんな作品にそれを強く感じたのか述べたい。


まずは東宝であれば「レインボーマン」。
そして東映なら「特救指令ソルブレイン」。
円谷ならある意味「ウルトラマン」を挙げてもいいかもしれない。
だが今回はレインボーマンと、ソルブレインを軸に話をする。


レインボーマンのM作戦編。
これは今尚ヒーローものを考える上で重要な問題を提示している。
敵である死ね死ね団によって引き起こされたハイパーインフレに対して、
レインボーマンは対処療法としての贋金工場の撃破および贋金をばら撒く死ね死ね団アジトの探索を行っていた。

がしかし。 アジトは全く見つからない。 かわりに御多福会(死ね死ね団が贋金をバラ撒くために作った新興宗教)の一つを潰すところまでは行ったが
贋金工場の近くまで行きながらも、自らの手では撃破できなかった。
それどころか、贋金によって経済は完全に混乱。
政府による贋金回収も遅々として進まないことが、この問題に拍車をかける。
やがて暴動は起こる。 食料品店を襲う人々。
ほんの一部の善意すら、本能に狙われ飲み込まれてしまう。

ヒーローであるレインボーマンは、荒廃しきった人々の生活までは救えない。
人々の善なる心に訴えるも、食料が無い事実には誰も太刀打ちできないのだ。
やがてレインボーマンは、大臣への直談判により食料の無償支給への道筋をつける。
ここでの正義はやはり「人々の生活を可能な限り元に戻す」であろうか。
川内康範いう所の「正義の味方」そのものと言える流れだが、
自分はそれよりも「社会情勢の混乱には、いかなるヒーローも敵わない」という状況のほうに目が奪われた。
#なお川内氏が作ったとされる「正義の味方」という概念は、「生涯助ッ人回想録」や竹熊健太郎「箆棒な人々」を参照されたい。
#多くの人間に誤解されているが、正義=ヒーローではないのだ。 日本人の好きな「勝てば官軍」の考えに沿った誤解である。


そして、コピー人間機械を使い各国要人を死ね死ね団員とすりかえることで日本そのものの信頼を落としつつ、
人工的な津波を引き起こすことで日本の治安を脅かし、かつ日本の世界競争力を奪おうとする「モグラート作戦」を経て、
サイボーグ軍団を作り出すシリーズにおいてミスターKとレインボーマンのやり取りで
以下のような発言があった。

ミスターK「お前が命がけで守っている日本人は、自分たちのことであくせくしているぞ。 そんな奴等をなぜ助けようとする?」

これは最終回もそろそろ近い頃の発言である。
それに対するレインボーマンの反論も踏まえると、
まるで「無敵超人ザンボット3」における、ガイゾックと勝平のやり取りを彷彿とさせるがレインボーマンのほうが早い。
詳しいことは是非本編を見て、判断していただきたい。
#人間爆弾の符合ばかり注目するオタクが多いが、それはあまりに表層的過ぎるだろう。

ここでは「ヒーローが守る市井の人々・社会と、ヒーロー自身の乖離」が突きつけられる。
敵であるミスターKやガイゾックは、ヒーローであるレインボーマンや勝平のそれまでの行動に鋭い疑問を投げつける。
たとえヒーローが勝利したとて、その疑問は我々受け手にとっては厳しい問題となって残った。
今もこれに対する有効な答えを、自分含めて出せる人間は居なさそうである。


この乖離は、先述のソルブレインでもややソフトな形で登場する。
国際情勢のアヤによって、不運にも爆弾を抱えて蘇らされたメサイヤの悲哀を描くメサイヤ編。
本来であれば「犯罪者の心をも救う」というテーマに沿って何かしらそれらしい発言なり行動をさせるところなのだろう。
東映のヒーロー作品なのだから。

が、主人公であるソルブレイバー・西尾大樹は何もしてやれなかった。
むしろメサイヤを見逃そうとすらしていた。
結局は自爆するという形で決着したのだが・・・。

さらに最終三部作。
中盤から登場の高岡隆一とソルブレインとの一連の戦いの締めくくりになる。
高岡はここで、嘗ての殺人犯に対し、その犯人に父親を殺された息子を近所に住まわせ
殺人犯であった男に精神的なプレッシャーを与えていく。
明確に、人間の心そのものに挑戦していく一方、高岡はソルブレインそのものの存在意義にも挑戦していった。

その最終回は、受け手である自分にとっては余りに切ない。
詳しくは本編を見ていただきたいところである。
自分が思ったことはただ一つ。
「ヒーローと言えども、人間を救うということは全体的な意味で不可能」
というもの。
部分的・・・ 生命そのものを救うのは可能だろうが、心まではとても。
第一生活すらメチャクチャにされては到底。

なによりレインボーマンでも、ザンボット3でも、ソルブレインでも描かれたこれら「ヒーローの限界」は、
ただヒーローに敵対する相手さえ倒せば終りという世界観に厳しい問題提起を行っているし
未だにこれに有効な答えも、反論もない。
ヒーローは対処療法しか出来ない。
あるいは、社会から一切目を背けて似たもの同士で殺しあうか。
#それはそれである意味小乗仏教的ですらある。
となると、自分としてはヒーローに正義というのは正味の話、狂人に刃物としか思えない。


正義というものはいくら製作者側や視聴者が正義がどうのとお題目を掲げようと、懐疑的であろうとも、
せいぜいカゼ薬程度の効能しかない。

もっとも、現実のカゼ薬は使い方を間違えば覚せい剤のような効果をもたらすものもあるし、
モノによっては妙な依存症を引き起こすような成分すら入っているのだが。