2014年1月17日金曜日

超星神グランセイザー・個人的総評(改)

ここでは、本作「超星神グランセイザー」全51話を主観でまとめてみることにする。
あくまで個人的な総評である点を断ると同時に、なるべくなら全話を見終えた方の意見も伺いたいところだ。
#最近であればなお良い。



【人物の多さによるドラマの希薄さ】 ’16/8/15 ストーリー部分追記のため改題


本作を評する言葉としてよく言われるのが「人物が多すぎる」だ。
創作物、ことに人間ドラマが主体となって作られる作品において登場人物が多いということは
えてして誰に注目すれば良いのか判らなくなる難点がある。
他の作品なら例えば五、六人居れば、その中で中心的人物やドラマを引っ張る人物を配することで
とりあえずその二人と、他を見ておけばひとまずその作品に集中して見れるわけだが
それも、全26話であれば26話全てに登場していることが前提条件となろう。

本作に関しては、全話に登場しているのが天馬と未加、そして堀口博士の三人のみ。
ついで登場回数が多めなのは仁、豪、蘭、愛、そして洸。
ここで面白いのは仁、豪、洸と愛はその職業上、キャラドラマ上での絡みはなくとも
展開の必要上出しやすいのか、わりと出てくることが多いところか。
蘭は水晶板から古代の記憶を引き出す能力を得てから、ストーリー上で必要な時に出てくるようになる。
それ以外の人物はスポット的に登場するか個人エピソードや全員揃わないといけない話に登場するくらいなもの。
なおこの分類は、第二部で全員が揃って以降のものである。

一応キャラクター描写としては、簡素ながらどういう性格・職業の人物かは描けている一方
深く掘り下げるという点においては第三部でほんの少し描写が行われているに過ぎず
例えば誠や涼子、辰平、剣、蘭そして(第二部だが)直人といった面々はドラマ的にも人物描写的にも
それほど奥行きのある描写がなされているわけではない。
ではほぼ毎回出ているメンバーはどうなのか。
残念なことに、天馬、未加、堀口博士も含めてそれほど人物像を深く掘り下げ切れているとは言いがたい。
人物ドラマ面だけで言うなら洸や仁、豪は割とドラマが描かれているとは思えるが
天馬や未加、博士は話を進める上で必要なキャラクター程度な扱いであり
蘭はその話に動き(特に終盤)をもたらすために機能しているだけに過ぎない。


思い込み前提の私見だが、グランセイザー12人はその大半が既に職業を持った社会人であり
すなわちある程度は自分の意思や思考が確立している存在であろう。
なのでドラマの上で必要な、個々人の意見の対立というものがあまり起こらない。
終盤で少しは出てきたのだが、それも最終的にはひとつの結論に速く収束してしまい
人物ドラマという意味では薄味ぎみであることは否めない。
もっとも、第二部の水のトライブと天馬たちとの意見の対立はそれなりにドラマにはなっているものの
あまり尾を引かないどころか最終的には水のトライブもグランセイザーとして纏まっていくあたりは
やはり「ヒーロー」である以前に「大人」なんじゃないかとすら思う。

第四十八話の、11人で言い合っていたシーンはそれを端的にあらわしている。
荒れそうになったら仁が間に割って入って止め
誠がリーダー格である天馬に意見を聞くくだりなどは、個人的感情や意見を言いたいだけ言い合って対立、バトルへ展開するという
ドラマ作りを既に確立していた平成ライダー(というより東映作品全般)と比べてみても
いかんせん盛り上がりに欠けるのは否めないかもしれない。

キャラクターで言えば、一番誤解されやすいのが天馬だろうか。
熱血バカという印象が(特に当時観ていた大人の視聴者に)あるようだし、自分も見返すまではそのイメージが強かったが
いざ見返してみると、意外とグランセイザー間を取り持ち、またまとめていくような人物像が
アッサリ目ではあるにせよ描かれており、それまでの印象を覆されてしまった。
確かに直情径行な性格ではあるのだが、一方で多人数を取りまとめる中心人物としても機能しており
しかも「オレがリーダーだ」というわかり易さもあまり感じさせない。
わりと全員が素直に天馬をリーダー格として見做しているようでもある。
このへんも、第二部における誠と天馬の対立を見た上で注目すると面白いかもしれない。

天馬といえば、作品上ライバルと見做されているロギア。
ヒーローものにおいてヒーローと同等以上の能力を持つライバルキャラはストーリー、キャラドラマ両方においても
アクセントたりえる存在である。
しかしロギアと天馬のライバル関係が急に出てきたようにしか見えないのは失敗なんじゃないかと思う。
第二部においてちょくちょく対峙はしていたのだが、キャラドラマの上でライバルと認識できる描写が皆無であるため
「記号的な意味でのライバル関係」でしかない点は残念ではある。
このへんは、本作特有の欠点「積み重ねの希薄さ」の一端を垣間見ることが出来る。



【ドラマの薄い反面、ストーリーは充実・・・ だが。】 ’16/8/15追記


人物ドラマ面においては円谷作品や東映作品と比べても薄味になっている本作。
ただしそれを補うかのように、お話の部分においてはむしろ充実していると言って良い。

第一部ではカリンに騙されたままトライブ同士の潰しあいを行っていた風のトライブが、やがて炎・大地のトライブと共闘するまでが描かれた。
未だに放送当時から「龍騎」「ハリケンジャー」のパクリ扱いされるこの小シリーズだが
「カリンに騙されている」という部分および「騙されていたとは言え風のトライブとして地球平和を考えて動こうとしてた」部分において大きな違いがあると言って良い。
どちらかと言えばウルトラマンガイアのガイアとアグルの初期の関係に近い。
#ただし炎と大地のトライブに地球のために戦う意思がいまいち弱い点を思えば好対照な気もする。

第二部。 水のトライブ合流と新たな敵・インパクターの策動が展開。
水のトライブが全員覚醒~リヴァイアサン覚醒までをサラっと流してしまっているが
主に誠が他トライブと反発して、中々全トライブが纏まって行こうとしない点は人物ドラマとしてみてもいいかもしれない。
むしろ、インパクター側の策動のほうを重視したい。
ロギアが星山として、和久井博士のお目付け役・・・ 実は利用し、ガントラスを奪おうとする展開がわりと丁寧に描かれている。
第一部のカリンと違って、直接地球を滅ぼすために動いていることも特徴である。
具体的には高濃度の酸素を詰め込んだガントラスを太陽にぶつけることで大爆発を起こし、地球を太陽の炎に焼き滅ぼそうというもの。
実際それが可能なのかどうか?という疑問もあるといえばあるが若干SF風味を漂わせていることは注目してもいい。


第三部はバラエティ編となってしまったため散漫な展開となったのが惜しまれる。
最後に出てきたオメガを最初から出して、未加とのドラマを描いていればそっち方面では注目度もあろうものだが・・・。

そして第四部。
本格的に地球制圧に乗り出したウォフ・マナフの幹部の一人であるベルゼウスの策動が描かれる。
ここでは何故か復活しているロギアと、カリンと同じくアケロン人であるルビーが絡み合い、
ウォフ・マナフも一枚岩の組織というわけではない複雑さが醸し出されつつあった。
第四部から現われたボスキートが、超古代戦争のきっかけであったのだが
これを一体だけ封印、現代に蘇らせたことが策動の第一歩となった。
ボスキートが倒されてからは、ウォフ・マナフとの交信能力があると思われる蘭を排除するために
蘭がボスキートの子孫であると国防省に吹き込むことで、グランセイザーと協調関係にあった国防省に動揺を生じさせる。
またこれはグランセイザー同士の不協和音を生み出すこととなり、終盤の最終決戦への決断に至るまで引きずることとなった。


ここまで書くと、わりとストーリー展開的には文句の無い盛り上がりを見せている。

それだけに、当のウォフ・マナフがオカルトチックな存在に成り下がったのが厳しい。
放送当時も、再度見返したときも覚えた脱力感は今でもはっきり思い出せる。
「ここまで話の規模を大きくしておいてコレかよ!」
という感覚だけは今なお残り続けている。

同じ「超古代の技術で生まれたヒーロー、ないし超古代の戦士」という意味で競合してる作品を引き合いに出すならば・・・
オカルト的要素は散見されながらもそれなりに物語を作りきった超力戦隊オーレンジャーやウルトラマンティガ、
それらと比べ、可能な限りオカルト要素を取り除いた仮面ライダークウガと比べると
グランセイザーの「ウォフ・マナフのトップがなんだかよく判らない精神体のようなもの」になったのだけは肩透かしもいいところである。

最終二話、突如打ち落とされたガルーダ→何故かよく判らない場所に居る天馬とルビー
という展開に関しては正直乗れない。
#最終回、あの展開の後に天馬は本当に死んだとかならもうちょっと納得は行く気がするのだが・・・。


ウォフ・マナフ自体をああいう形にすることが決まっていたのであれば・・・
ゲームになるが「ウルティマシリーズ」みたいに、何かしらの概念だけで作劇しきってたらまた違ってた気もしなくもない。
本作で言えば「調和」という概念だけでどこまで物語を作りきるのか、というところなのだが。
終盤少しだけ調和・・・ 「ウォフ・マナフと戦う意思はない」について語られていたが、なんとなく終盤の展開に流された感は否めない。
スタッフたちの間で、思いついたネタを逐一入れてみた結果のようにも見えるし終盤二話に関しては個人的には好ましくないものである。

ただ、終盤の展開を可能な限り無視すればストーリー面においてはむしろ見どころも多く
他社作品と比べても見ごたえはあると言い切りたい。


なお、「ウフ・マナフ」とはゾロアスター教の神で 「善い思考」 の神格化とされる存在である。
#今までのレビューで「ウフ・マナフ」と書かなかったのは、これがモチーフであると見做したからでもある。
さまざまな宗教・哲学からの引用をすることが多いヒーローものを含んだ創作物だが
本作においては引用がうまく行っているとは言いがたい。
ああいう存在にするのなら、作品自体「らしい」描き方を全体的に行うべきだったようにも思うが・・・。
唯一天馬の発言「殴られたら殴り返すが、殴らなかったらそれで戦いは終わりだ!」が良さげではあるものの。


最後に。 個人的になぜ「ウォフ・マナフの正体がオカルトチックなのがイヤ」かと言えば、それまでの物語の中で様々な異星人が登場している上に
「ウォフ・マナフという組織」があるということが判っている状態の世界観なのだから
当然そのトップもそういう異星人なりが勤めるものかと思っていたからである。
あんなのにするくらいなら、最初からモチーフどおりに「善なる思考」の物語として描けばいいのに・・・と思う。



【ストーリーの影の立役者・国防省】

人物が希薄という一方、ストーリーはそれまでの作品と比べても敵と見做されていたウォフ・マナフを中心とした
地球の存亡をかけた一大攻防戦の趣を強く打ち出しており
特に第四部においてストーリー上で意外な真相や、ウォフ・マナフ側の好からぬ企みを抱くベルゼウスの一味と
それを良しとしないルビーとのせめぎ合いなど、終盤の盛り上がりについては文句の付け所がない。
人物で話を引っ張っていないのが幸いしたのか、ストーリーは思いのほか重厚で
ここだけを見れば他社作品にはけして勝るとも劣らないのではと言い切れる。

ことに、グランセイザーのほかに地球(というより日本)を守る組織としての国防省の存在はストーリー上大きな役割を果たしている。
従来のヒーローものでは、こうした地球側の別勢力は添え物程度だったり足を引っ張ったりする存在になりがちだったが
本作においては、当初は日本防衛の為にグランセイザーを利用しようとしていたものが
敵であるアケロン人の強大さに、やがてグランセイザーのサポートへ回る方向に考えが変わる。
それは最終回に至るまで変わらない、と思いきや最終決戦では国防省はウォフ・マナフの攻撃に対して迎撃を行う決定を下すなど
「日本を守るための組織としてやらなくてはいけないこと」の前提に立ち返った行動がアクセントになったりと
実は本作においては一番ストーリーに貢献している存在ではないかとすら思う。

「ヒーロー」に注目して見ると、国防省の存在がちょっと足を引っ張っているようにも見えるが
「地球VSウォフ・マナフのストーリー」に見方を変えた場合その印象もガラっと変わり
あくまで日本、ひいては地球を守るためにグランセイザーも国防省も戦っていることに違いは無く
ただ、その方法が軍隊とヒーローとで違ってしまっているだけの話と考えれば
けっして国防省も間違った判断をしているわけではないことがお分かりいただけると思う。
御園木が、長らく付き合いのあるグランセイザー側に与したい心情をあえて吐露せず
「軍人として」上層部の指示に従わなくてはならないという苦しい立場を取った第四十九話などは白眉である。

ただし、ここまで幾重にも要素が積み重なっているストーリーではあるが
実際は第四部にならないとその真価が発揮されず、言ってみればボトムヘビーな物語であるのが辛いところで
これはボスキートやベルゼウスといった存在が突如第四部で登場しているのも原因ではある。
各話レビューで触れたが、せめてそれぞれ第二部あたりから存在を匂わせておけば
視聴者的にももう少しストーリーへの興味が引けたんじゃないかと思うのだが。

当時観ていた感想としては「なかなか盛り上がっていかない」だったのだが
改めて見返すと第一部・第二部はグランセイザーの結束を描き
第三部・第四部でようやくウォフ・マナフが本格的に現れる構成であることに気づく。
さらに言えば第二部終盤でようやくウォフ・マナフの存在が視聴者に知れるところとなり
第一部にいたってはそもそもそんな組織が居るという情報すら出てきていない。
つまり第一部・第二部だけを見ると「新しい敵が突如やって来て地球を破滅させようとしている」程度にしか見えないのだ。
もっと言うなら目的が漠然としたままの戦いを見せられている、とでも言おうか。


【1クールごとで話を作ることの弊害と、本作】

後半にならないとラスボス的存在が現れない平成ライダーやウルトラシリーズはともかく
戦隊シリーズなどでは基本的には「敵のボスは最初から出てきている」ことが多く
これは視聴者的にも、ストーリーの終着点が判り易いというメリットがある。

本作はその形を取らず、四部構成でその都度当面の敵を設定する造りになっている。
これは第一部のアケロン人、第二部のインパクターに顕著だ。
この形式は日本初のヒーロー番組「月光仮面」から、形を変えて長らく使われている形式で
メリットとしては作品自体のバラエティ性を確保できる点がある。
しかしデメリットも存在しており、「敵が変わると、その都度話がリセットされてしまう」のが難点ではある。
月光仮面をはじめ、同じ形式のヒーローものにおいては「ヒーローそのものの魅力」でこの問題を感じさせないという力技も存在しており、
これはキャラクターが立っていればストーリーが切り替わろうと視聴者は付いて行けることも実証している。
(特に判り易いのは東映作品の「仮面の忍者 赤影」だろうか)

ひるがえって本作ではどうか。
先ほども述べたように、本作はキャラクター立ちという意味では弱い。
もっと簡単に言えば感情移入しづらい。
結果的にドラマ性も希薄であるため、どうしても物語そのものへの注目度も低くなりがちではあった。

それをある程度補ったのが「ウォフ・マナフ」という存在である。
第一部ではその名前すら出てこなかったが第二部終盤で突如として登場。
第三部ではウォフ・マナフからの刺客が登場。復活したロギアと国防省が作ったクローンアケロン人なども織り交ざり
ストーリー的にはよく言えばバラエティに富み、悪く言うと散漫なものへと変化する。
そして第四部では古代の戦争の原因であるボスキートと、ウォフ・マナフの中において宇宙支配の野望を持つベルゼウスが話を引っ張っていくことになる。
こうしてみると、第二部終盤から明確なストーリーラインの縦軸が現れては居る。
それを第一部から出さなかった点だけは少々意味が判りかねるが・・・。

東宝作品で言えばこの構成は「愛の戦士 レインボーマン」に類似している。
死ね死ね団およびミスターKという明確な敵がストーリーラインとして強固に機能しており
それゆえ四部構成で、作戦内容が変わっても視聴者は「レインボーマンVS死ね死ね団」に集中できる。
他社で言うなら東映作品の「星獣戦隊ギンガマン」になろうか。
魔獣ダイタニクス復活のためにあらゆる手段を用いる宇宙海賊バルバンというストーリーラインがあるため、
一クールごとにバルバン魔人軍団が入れ替わっても視聴者は話への集中力が途切れないのだ。
※あえて本作以前の作品たちで比較しました。ご了承ください。

しかし本作がそれらとは似ても似つかないのは、やはり第四部にストーリー上の要素が全て集中してしまったことが原因だろう。
先ほども書いたように、ボスキートもベルゼウスももう少し早く存在を提示するべきだったし
ウォフ・マナフそのものも第一部から存在を匂わせておくべきだった。

ただし一方では、超古代の戦争の記憶が実はボスキートVSウォフ・マナフであるという転回と
第二部から現れた蘭の水晶板から様々な記憶を呼び起こす能力、そして「交信」能力など
それなりにグランセイザー側にも、ストーリー上での軸となる要素は提示されているため
少しはグランセイザー側の注目点も一応あることはあるのが救いだろうか。

10年経って見返してみて、どうも感想が大きく異なるぞと思っていたが
冷静にストーリーの部分を見てみると、上記のような問題点が浮かび上がってきたわけで
つくづく構成の悪い意味での適当さを視聴者として感じさせられるのは辛い部分だ。


【特撮一点豪華主義、その功罪】

このレビューでも度々比較に出てきており、今後のレビューでも出てくることは間違いないのが東映だ。
実際、映画会社としても長らくのライバル同士であることは疑う余地は無い。

その東映の会社のカラーは簡単に言えば「ヒーロー(主役)至上主義」である。
これは時代劇にしろ、刑事ドラマやヤクザ映画、そしてヒーローものに至るまで徹底している。
だからこそ上記四つのジャンルにおいては絶対的なブランドを確立できており
おそらく誰もがそのヒーロー主義を疑う余地はないだろう。 自分も含めて。
どれだけ作風が1作ごとに変わろうと、最低限「ヒーロー(主役)をかっこよく見せる」という作劇だけは守っており
だからこそ今に至るまで長らく作り続けてこれたし、支持も得られたわけだ。

さて、東宝である。
実は東宝は、東映と違って「このジャンルなら負けない」ないし「映像作品を作る際の明確な主義」というものに乏しい。

確かに「東宝特撮」というブランドはあるのだが、それは円谷英二在籍時に確立されたものであり
もっと言えば「特撮」と言えば映像技術のことで、ジャンルとは言いがたい。
#これは「東映特撮」と言えばイコールで「ヒーローもの」という状況とは違うことを念押ししたい。
このBlogでは「特撮=映像技術」として話を進める。

東宝も時代劇や刑事ものはやっているが、作品単体としての評価は高くても
それがイコールで「東宝といえば時代劇、刑事ものだ」という評価にはなっていない。
黒澤作品の「七人の侍」「用心棒」があるからといって時代劇に強いイメージはないし
「太陽にほえろ!」を製作したからといって刑事ものが得意という印象もない。
戦争モノやホラー、パニック映画でもその特撮映像で評価は高い作品も生み出しているが
やはり単体の評価にとどまっている感すらある。

#大雑把に言えば、東映の特定ジャンルに強い印象は全て「長年やり続けていたから、本数を多く作って来たから」に他ならない
#東宝も、ゴジラが60年に及ぶシリーズとして未だにファンから愛されてはいるのだが・・・。

特撮に話を戻すと、ゴジラという強大なキャラクターこそ持っているが、これも時代によってその立ち位置はめまぐるしく変わっている。
さらに言えばテーマなども変わっており、ウルトラマンや仮面ライダーに比べたらその実像がイマイチぼやけている点は否めないだろう。

そんな東宝がテレビでヒーローものをやる。
当然東映と違ってヒーローもののノウハウはない。
特定ジャンルに強いという特色すらない。
あるのは「特撮の東宝」というブランド性だけ。
となれば、東宝としてはその特撮を前面に打ち出した作品作りを行うほか無い。

レインボーマンの時、川内康範氏に有川特技監督が様々な叱咤激励を受けたというエピソードが語られたが
どちらかといえば東映作品の印象が強い川内氏にすら特撮について色々言われるあたり
東宝=特撮という印象は強固なものなのだろう。
#ここで面白いのは、東宝も東映もテレビのヒーローものを手がける最初の作品には必ず川内氏が関わっている点だ。
#川内氏の、ヒーローものというジャンルにおける功績はもっと評価されるべきではないだろうか。

セイザーXまでで、東宝がテレビで製作した特撮ヒーロー作品は10作。
そのどれもが特撮を前面に打ち出しているかといえばそうでもないものもあるが、
全体で言えば特撮映像ただひとつで東映・円谷が主流のヒーローものの世界に挑んだわけである。
中にはサイバーコップのようにその映像のクオリティはともかく、意義は認められている作品もある点は面白い。
ガイファードはアナログ特撮よりVFXやCGに比重が置かれているのも見逃せない。
上記二作も、余裕があればレビューしてみたいところだ。

話を戻す。
とかくノウハウの蓄積に乏しい東宝としては
ヒーローものを作るにしても毎回その製作メンバーの入れ替えは不可避であり
事実、それは当シリーズの演出・脚本家を見ればわかるように三作全てに関わったスタッフが驚くほど少ない。
監督は池田敏春、脚本家はガイファードも手がけた稲葉一広と本シリーズがデビューとなった河田秀二しか居ない。
これではスタッフ間の作劇の方向性も作品によってバラバラになるのは致し方ない気もする。

そうなると俄然、特撮のほうに視聴者側も観る意識が強くなっていくのだが
少なくとも本作を見た限りだと、リアルタイムで観た時のの印象とは裏腹に意外と手を抜いてる部分も目立つ。
巨大戦を数話に一度しか行わない分、見ているほうも無意識に細かいところに集中してみてしまうわけである。
もっとも当時は東映や円谷作品と比べてハデだなぁ、という本当に見た目の部分だけで楽しんでいたものだが
今になって見返したら、細かい部分も見られるようになった分、当時見えなかったアラも見つけてしまい
これはこれで少々微妙な気持ちになったことはここで明らかにしておく。

ただし、それでも本作の特撮については競合他社と比べても高いクオリティをある程度は維持できていた点も強調したい。
第三部以降はやや慣れが生じて微妙なものが増えていくが、第一部・第二部に関しては文句無くオススメできる回もあり
これは川北紘一自身が「特撮で作りこめば付け入るスキはある」と言い切るだけはあると感心させられる。
特に東宝の大プールを用いて撮影した回はなかなかの迫力だし、第八話は個人的には強くオススメする回である。
もっとも、第一部の巨大戦はどれも勧められるのだが強いて言って特に勧められるのは八話と十二話だろうか。

ヒーローものとしての魅力は乏しいかわりに特撮だけはテレビ作品としては一級品。
そんなちぐはぐさがグランセイザーの一面として最も目立っていることは
当時の視聴者、または今見返した人々に一致する意見ではなかろうか。


【ケレン味に乏しい、ということはヒーローがかっこよく思えない】

本作に限らず当シリーズが苦しんだ部分が「ヒーローがかっこよく感じられない」だろう。
これはアクション面も一因ではあるが、それ以上に東宝に
「ヒーローをかっこよく魅せる」という発想に乏しいのが最大の問題ではないだろうか。
東映、および松竹はこれをくどいくらいにやりきっていることを考えると
どうも東宝のノウハウ不足というよりは、そもそもの会社のカラーの問題のような気もする。

特にグランセイザーでは、明確な装着バンクは全員分用意されておらず
必殺技バンクも12人中2人にしか存在していない。
名乗りバンクにいたっては1人にしか作られていないのだから、アピール不足のそしりを受けても仕方ない。

別にバンクがあればいいといってるわけじゃない。
ヒーローのかっこよさをアピールする映像を毎回流せるというのは、その刷り込み効果の高さを期待できるわけで
色々な要因があってバンクという手法があることを考えても、結果的にはヒーローのかっこよさが
印象に残しやすい手法であることは疑いようが無い。
#ちなみにウルトラシリーズや平成ライダーの場合、必殺技バンクがない変わりに毎回似たような構図で見せ続けることで
#必殺技への印象を強く抱かせることに成功している。
#特に平成ライダーは、変身ポーズでもその手法を取っているように思える。

グランセイザーの場合、必殺技も一部を除いてはバンクなしでVFX合成を行っているため
カットの構図によっては印象がだいぶ薄くなる回も少なくなかった。
これは、東宝の特色として度々書いてきた「引きぎみのカメラ」「1カットが長い」ことが影響している。
確かに怪獣モノやホラー映画などでは上記の画作りは効果をあげるのだが
ヒーローものでこれをやると、情景>ヒーロー というふうにヒーローの印象が後退する難点がある。

必殺技などの印象も、ほぼ毎回出てきていたバーニングファルコンですらその使用時のカットが
毎回のように違う構図であるせいかなんとなく「必殺技?」という印象にとどまってしまっている。
精々、必殺技バンクのあるトラゴスのペネトレイトサンダーかゴルビオンのデ・ストームの二つが印象に残るといえば残るのだが
毎回出ている二人じゃないので、やっぱり影が薄い点は否めない。

また、殺陣にしても「1人の敵VS複数のグランセイザー」という図式において
グランセイザー側がせわしなく攻め込んでいる画がかなり多い。
これが、戦隊の一斉に叩き込むコンビネーションと違って各々ターゲットに違う攻撃を叩き込む形な為に
一種「組体操的」なバトルに見えてしまう問題点も出てくる。
ここで一番厳しいのが、そこまでやってもなかなか優位に立てないことも多いため
グランセイザー自体があまり強くない印象すら出てきてしまう。
さらに、ギグファイター五人を交えた殺陣のシーンなどで狭い画になることも多いのだが
ほとんどの場合、引きより寄り気味のカメラワークで撮っていることが多いようだ。
このあたりも、本作の戦闘シーンがあまり印象に残らない原因なんじゃないかと思う。

ワイヤーアクションの多用も、当時や今もちょくちょく言われるところなのだが
個人的にはまあこれはこれでアリなんじゃないかという気はする。
ただ、ロギア復活回の空飛ぶロギアなど「いちいち飛ばす必要あるのかそれ?」という画が見られるのもあり
人によっては印象が悪いんだろうな、と思えなくも無いのはなんとも言えない。

ジャスティライザー、セイザーXでは上記のような要素は薄まったり変化していくため
本シリーズのアクション面はいろいろな試行錯誤のもとで成立していると言ってもいいのかも知れない。


【色々言いましたが】

全五十一話を改めて見終えてみると、当時とは本作品の感想も大きく変わったことに気づく。
「レビュー」という視点で見るのと、リアルタイムで見るのとではその立ち位置からして異なっており
当然10年前の作品ということもあり、個人的にも心情などの変化で見るポイントなどが変わった結果
グランセイザーに対する違う感想が生まれたように思う。

レビュー内では色々苦言も出たものの、結論としては
「ヒーローものとしては物足りないが、地球VS宇宙連合の一大防衛戦としては文句なしに面白い」である。
その地球、というのはグランセイザーと国防省のことだが
ヒーローだけに偏ってない地球防衛戦、そしてヒーローものとしては特殊な「争いを止める」という結論で〆る最終回は
東映などの他社で近い形のものはあったにしろ(イコールというわけではない)、
結果的には東宝らしいヒーロー作品の礎になれる素質はあったと言い切れる。

何より国防省という軍隊を配したことで、明確なミリタリーテイストを湛えた作品になっている点も大きい。
他社作品では警察との共闘というパターンがこれに代わっているものの、個人的には物足りなさを覚えていたためグランセイザーの放送当時は相当期待も高かったし
今見返してもたんなるやられ役とは違う、彼ら自身の行動原理に気づいてからはより評価が高まったことも強調しておきたい。
ユウヒだけじゃないんです。国防省って。

ジャスティライザーから他社のヒーローものと変わらない方向にアジャストされていく点を踏まえても
本作・グランセイザーは決して他社作品に負けない魅力を持ち合わせている。
10年経った今、改めて声を大にして言いたい。