2014年1月22日水曜日

超星神シリーズと特撮とオレ【7】

超星艦隊セイザーX。
三作目にして最終作となった本作だが、当時の第一報を観た時の感覚は忘れられない。
自分の感想を述べる前に、当時セイザーXがアナウンスされ、また第一話が放送されたとき
どれだけの人が覚えていて、またそれについてどのような感想を抱いたのか。
もし当時のことを覚えていたら、どうぞその時のことを思い出していただきたい。
きっと当シリーズに抱いたイメージや、それまでのヒーロー物遍歴によって差はあろうが
だいたい似たような感想に落ち着くはずである。

その時自分が抱いた感想は「色々開き直りすぎて微妙」であった。
動物キャラを用いるという直球さもさることながら、話そのものも良くも悪くも普通のヒーロー物のようになり
それはキャラクターたち(や役者)においても同様の印象を抱いたものだった
さらに言えばEDテーマや「今日の一言」のようにNHKの幼児向け番組のようなノリと
コナミ自身が商品展開時に提示した「ギュっ!と愛情」というテーマなど。

あまりにも子供狙いを打ち出しすぎたために、当時は(ネタとして見る分はともかく)セイザーXで視聴を切ったという視聴者も居たことは想像に難くない。
今にして思えば子供番組なんだからそういう方向に舵を切っても致し方ないのだが
自分の感覚から言ってもちょっと露骨さが鼻についたことをよく覚えている。

役者の部分において、前二作と違い東映などのヒーローもののように
その当時の感覚から言って「イマドキのヒーローもの」に相応しい顔立ちの役者をそろえてきたり
東宝の中でもかなりの部分でモダンなヒーロー物へ方向転換をしたのだろうということは容易に想像はついた。

第一話の後も視聴を続けてみたものの・・・。
本編じたいも、それまでと趣を変えてキャラクタードラマを前面に出した物語作りを強化。
このあたりはジャスティライザーの流れを汲んでいる。
しかし、デスカル三将軍が憎めないキャラクターであったことはさておいても
デスカル→ネオデスカル という流れを見ていてとくに感じたのが
コスモカプセルというキーアイテムでかろうじてストーリーの縦軸を確保してはいるが
物語の構成の拙さまでジャスティライザーを受け継いだ点が、いまいち乗れなかった部分だった。
率直に言うとネオデスカルの連中が出てきてからはストーリーにさほど興味が持てなくなっていたのも事実だ。
「ああ、またこういう流れか」という具合に。

簡単に言ってしまえば、キャラクターに頼りすぎた物語とでも言おうか。


こういう作劇はどちらかと言えば東映の十八番であり、当時はこの違和感をそうと表明できなかったが今ははっきりいえる。
東映のヒーローものにますます近づいていってしまった、と。
それは、三人揃って見栄を切った回などでもそうだし
ジャスティライザーの時から本格導入した装着バンク、必殺技バンクや巨大ロボの合体バンクなど
見せ掛けの部分でかなり東映ヒーローそのものへと変化しつつあった。
そして前述のように、キャラクタードラマに偏っていったおかげでヒーローものとしてはある種
安心して観られる作風に転換したというのもある。
だからこそ、東映ヒーローに慣れている視聴者にもとっつきやすいという部分もあった。
#これは同時期放送の「魔弾戦記リュウケンドー」にも言える部分だ。

しかしこれも、結局東宝ならではのヒーロー作品という方向性を喪失することとなり、
グランセイザーでは確かにあった、ヒーローものらしからぬ空気感とストーリー性が
ジャスティライザーで濾し取られ、セイザーXで東映的な判り易い味付けを加えられたせいもあって
最終回に至るまでこの違和感を払拭することはかなわず、セイザーXの全話視聴が終わってしまった。

セイザーXだけを観た人間と、グランセイザーから追いかけてきた人間との間には溝があるとリアルタイム放送時から感じていたのだが、
それはセイザーXファンがあまりに前二作をないがしろにしすぎている部分もあったことは否めない。
確かに三作それぞれに作品の方向性はバラバラなので、とても同一シリーズとは思えないし
また思う必要もないのかも知れないが・・・。

そしてセイザーXの周辺も安穏としていたわけでもなかった。
監督の一人である市野監督のブログでの発言(ガキども見てくれよ!発言)や
脚本家の河田秀二の日記での発言(主にスタッフや現場での改変についての愚痴)など
ジャスティライザーまでは見られなかった「自己主張から来る歪み」が露になっていたのもこの頃。
#河田氏の発言は既に削除されているようです。
#ジャスティまでは見られなかった各種愚痴が、セイザーXで突如現れだして戸惑った自分が居たっけ…。

セイザーXの時点で、自分の中の「ヒーローものに感じていた、心地よい幻想」というものが完全に醒めていた。
それは実際「ハリケンジャー」の時点で既に醒めていたものでもあったが
当シリーズのおかげで「もうちょっと見続けよう」と思えたのも事実だったし
その原動力として大きかったのは「特撮映像の迫力で楽しませてくれた」からに他ならないのだが
同時に自分の中の幻想が既に消えていたことを自覚させられたのもこのシリーズのおかげであった。

その後のヒーロー物視聴は「トミカヒーロー・レスキューフォース」以外はまともに見ておらず
(ケータイ捜査官7は見ていた)
本格的にヒーローものという娯楽からも気持ちが離れてしまった事を、その頃には自覚してしまっていた。
戦隊の記憶はボウケンジャーまでで止まっており、ウルトラマンもマックスは気に入っていたが
ライダーは龍騎以降は興味が持てずにスルーしているという状態であった。
(元々仮面ライダーには興味がないという嗜好の部分もあった。ごく一部を除いては)
それまで放送されたテレビヒーロー物で、唯一自分が熱を上げて見続けていたのが超星神シリーズだったと言っていい。

当時、自分がヒーロー物やかつてのビデオゲームに求めていたものは「自分が安心して心を委ねられる幻想」であった。
それは現実の世知辛い部分や、辛気臭い人間関係と軋轢から忘れられるという意味において
自分にとっては重要な要素であった。
平易な言い方をすれば「夢中になれるもの」でもいいかもしれない。
川北紘一たちスタッフが、自分の目を再度「特撮映像」に見開かせてくれたその輝きだったが、はかなくも約3年でその輝きを失ってしまった。
当シリーズに抱いた過剰なまでの期待と、失望と、そこからくる諦めや無念さが、このblogを続けていくうちに
徐々に蘇っていったことは、このシリーズが自分に何かを告げてくれているかのように感じられる。

当時、ある人が当シリーズが終了するときにこう言っていた。
「惜しまれてる間に終われるのは、幸せじゃないか」
その言葉は今の自分には、あまりに重く切ない。

だが、セイザーXが終了してからこのblogを立ち上げるまでの数年間は、このシリーズに対してのいい思い出だけを胸に仕舞いこみ続けていたことを思えば、
今の自分は、他人からどう思われようとこれだけは言える。
「あの頃、あれだけ夢中にさせてくれてありがとう」と。