2015年12月10日木曜日

超星艦隊セイザーX個人的総評


ここでは、「超星艦隊セイザーX」全38話を主観でまとめてみることにする。
あくまで個人的な総評である点を断ると同時に、なるべくなら全話を見終えた方の意見も伺いたいところだ。
#最近であればなお良い。



【未来と現代を股にかけた壮大なドラマ】

セイザーXの設定で大きく目を引くのが「未来から来た人間たちと現代人によるヒーローチーム」という点。
ここだけみると東映作品「未来戦隊タイムレンジャー」そのものである。
特にケインのキャラクターと特性は同作のシオンを彷彿とさせるものであり、当時見た自分もデジャヴを感じた。


ただしタイムレンジャーと大きく違う点としては
「闇に支配された未来の世界を転覆させるため、そうなった大元であるコスモカプセルを集め消滅を願う」
という目的がセイザーXに存在している点であり、当然未来のネオデスカルもそれを阻止し
自分たちが存在している従来の歴史どおりにするために、第二部から現代へ合流していくことになった結果
ストーリーは複雑にして重厚なものへ変質していくことになる。


ここで最初からキーパーソンとして存在し続けていたのが宇宙海賊デスカル三将軍。
サンダーラの持つカプセルも込みで12個、三将軍が手に入れて地球と宇宙を闇に支配させることが歴史の規定路線であった。
当然そんな未来を知らない彼らは、初期はバーダー艦長の言うがままにコスモカプセルを集め地球制圧に邁進していた。
ガレイドたちが合流するようになってからは、三将軍が仮に地球上から居なくなれば自分たちの存在も危ういということで、特にブレアードなどは
邪魔者となりつつあっても排除しきれないことがストーリー上のアクセントとなっていた。


【ストーリーの複雑さと注目点の増加】

最終決戦の中間総評でも述べたとおり、シャークを初めとした未来のセイザーX側は
自分たちの存在が消滅・元の時代に戻れないリスクを背負ってでも未来の世界を変えなくてはならない覚悟で臨んでいた。
元の時代に戻れないという話は第一部から既に語られていたものである。
#タイムレンジャーはメカさえあれば何時でも戻ったりできるがセイザーXはワームホールの特性のため元の時代に戻るのは不可能。

そしてネオデスカル側も、三将軍を生かしつつも歴史の規定路線を守るべく第三部には御大自ら登場。
ダークアルマーによって人為的に闇を発生させて地球を包むことで、コスモカプセルの効力を無くしつつも「見かけだけなら」歴史どおりにしようと目論む。
このとき当然ネオデスカルの軍勢も消滅することになるとは自らも認識していた。

第三部では両者ともに未来では存在しなくなることを踏まえた上でお互いの未来を賭けて戦うことになったのが最大の争点である。
セイザーXにとっては、シャーク以外の残された人間たちが未来を
ネオデスカルにとっては三将軍が自分たちの未来をそれぞれに担っていたものである。
特に後者は本編では言及されてなかったものの、三将軍さえ残っていればネオデスカルとはまた違う形の「宇宙海賊」が生まれ、似たような未来になった可能性もあった。
もっともこれはサイクリードの洗脳が解けてないという前提もあるが・・・。


第二部に視点を戻すと、Xデイを阻止した時点で既にネオデスカルの存在自体が怪しいものになっていた。
サンダーラが再び地下深く潜る道を選んだ時にグローザが消滅、
ガレイドも力及ばずセイザーXの前に敗北してしまった上に三将軍自体もブレアードとアクアル・サイクリードに分かれてしまいまとまりのない状態となっていた。
この第二部終了から、本作はさらにストーリー面ドラマ面が複雑化・盛り上がりを見せていった。

第一部の時点ではドラゴンボールのようなカプセル争奪が物語の軸となっており
若干牧歌的な雰囲気もあったが、二度と未来に帰れなくなるセイザーXの面々の、ほのかな悲壮感も今見返すと感じられる。

第二部序盤の、ブレアードたちの祖先は実は古代の地球人であり
ビオード星の人間による侵略のせいで宇宙へ逃げるか地下へ隠れるかの二つの道に分かれてしまったと語られたが
ストーリーの基点がサラっと、しかしアド自身のドラマにも関わる形で提示される点など
ストーリー展開が前二作よりは明らかに丁寧になりつつも複雑さを持ち合わせていることに気づいた視聴者も多いだろう。
#個人的にはこれこそ、グランセイザーの中盤でやるべき展開の仕方だと思うだけに感慨深い。


【ドラマの進歩】

グランセイザーから順にみると、一番変化が如実に現れているのがキャラクタードラマへの注力。
ジャスティライザーから試みられていたものの地味に終わったことを考えれば、味付けは濃い目になっているものの
ただ判り易いキャラ付けに終始せずに、ストーリー展開に応じてキャラクターの心情変化や進歩が丁寧に描かれている。


特に拓人、アド、ブレアードとレミーは顕著だ。
拓人はサンダーラとの出会い以降、コスモカプセル争奪のための戦いが続くことに疑問を覚え
最初から考えていた三将軍が宇宙へ出て行くことを次第に強く考えるようになる。
シャークの反対を押し切ってでもアクアルの説得を試み、結局サイクリードもなし崩し的に自分たちの陣営に引き込んでいった
その意思と強運は、ストーリーの牽引にも一役買っていた。

なにより拓人が終盤、ブラックライオとの問答で答えた
「たとえ考えが違おうが敵であろうが、分かり合えるんだ!」という言葉に
彼の長きに渡る戦いの中で得られた大事な、拓人個人の思想が現れている。
最初は猪突猛進な部分だけが目立っていたのが、その部分を大きく変えずに、しかしブレアードやアドとの関わりの中で得たことがよく判るし
成長劇という意味においてはある意味理想的な見せ方をしていると言って良い。


アドとブレアードと言えば、先ほども述べた古代の地球とビオード星の因縁。
アドは当初こそ地球人を見下していたのだが、ビオード星が地球を制圧した事実をブレアードから聞かされ揺らぎ出す。
地球人の生活に触れ、家族と言う存在の温かみに触れたとき彼は改めて戦う決意を胸に抱くようになる。
それは最終回の別れ際に拓人に言った言葉が象徴している。

家族の温かみ、に触れてもう一人変化した人間・・・ ブレアード。
第二部でセイザーXに捕まり、安藤家の居候を経てジャッカルと行動を共にしたものの
ジャッカル死後は再びセイザーXへ合流することに。
ブレアード自身第一部で自ら語ったように、バーダー艦長を親や神様とまで思って慕っていたのに
中々自分のすることが報われていないことにも悲しみを感じていたところに人間味を覚える。

なにより、「親もなく育った」三将軍のうちもっともナイーブなところがあったブレアードにとって
安藤家でのひと時はその海賊生活を送った人生の中でもっとも大きい変換点であった。
サンダーラとの運命的出会いも、結局は別離することになったが
かえってブレアード自身の性質が若干落ち着いていく切欠にもなっていった。
第三部に至っては度々拓人の悩みを聞いたりする程度には余裕が出ていることに気づいた人も居るかも知れない。


そして一番ドラマチックな身の上となったレミー。
シャークとは血の繋がりがないどころか、実は1960年の地球から連れてこられた少女だった。
あと数年で死ぬことが決まった彼女を、幼い彼女へ情が移ったシャークと若い宗二郎とが哀れんだ結果
未来に戻ってネオデスカルに叛旗を翻すための戦力を集めるという目的のほかに
レミーを連れて行って他の星で治療を充分に受けさせ、彼女自身の未来を繋いだのだ。

その後成長したレミーがセイザーXへ志願、現代で拓人や安藤家の人々と出会うことになる。
第一部のタイムカプセルがしっかり伏線として機能、第三部での真相解明とあいまって
見る者にレミーへの感心を一気に引き寄せることに成功している手腕は見事だ。
最終回、建築現場のバイトをするほどまでに逞しくなっていた彼女は微笑ましい。


【大事な家族・安藤家】

このあたりは別の更新で、東宝ヒーローの特色として改めて纏めたいが
ここでは主に本作および本シリーズに関してのみ語ってみる。


ジャスティライザーにおいては伊達電器店および源太郎が、ヒーローの日常を象徴する場所として機能していた側面があった。
#バックヤードがジャスティライザーの作戦会議室になっていたものの。

本作では安藤家が、その「ヒーローの日常を象徴する場所」の機能のみを担当。
それは度々訪れたセイザーXの面々が食事をご馳走になったり、フロに入るあたりでも窺える。
さらにブレアードを縁側で繋ぎ止めつつ洗濯物を干させたり
ジャスティライザー以上に「日常感」を強く打ち出したのが安藤家。

しかし春子も由衣も、宗二郎も 戦いに臨む拓人たちセイザーXのことを誰よりも心配していた。
それは第一部や第三部終盤に挟まれた、ニュースを見て心配する安藤家を見てもよくわかる。
これはジャスティライザーでもやはり同様であり、この点においては両者ともに甲乙つけがたい。


本作では宗二郎と春子に、源太郎の役割を分散させたことが功を奏している。
特に宗二郎は、拓人にとっては祖父でありながらも父のような威厳を持って拓人にあたっていた。
これが終盤で、宗二郎が拓人の成長を喜んでいるシーンをより感慨深いものとしている。
その宗二郎も友人・シャークの願いのもと徹夜続きでコアブレイバー2機を追加で製造したり
中破した戦艦の修理を担当するなど、後方支援をケインの力を借りつつ受け持っていたのも印象に残る。

簡易式コスモカプセル探知機を作るなど、技術者としての能力が本作序盤から語られていたがその通りの大活躍を最後まで見せていた宗二郎。
こうした裏方側の描写は、ジャスティライザー以上に増えているのも特徴と言える。
もちろん宗二郎たちを労うためにおにぎりを作って持っていく春子が、一服の清涼剤足りえていることを忘れてはいけない。


【ストーリー面・ドラマ面の強化の一方・・・】

こうしてストーリー・ドラマ両面が強化された本作だが、ところどころ引っ掛かりを覚える点も無くは無い。

第三部の、ネオデスカルの目論見とシャークの存在についての説明がやや雑になっているが、
これは文芸や演出側のほうで今一歩及んでいないようにも感じた。
コスモカプセルがセイザーX側に与するようになった点などもちょっと唐突感が否めず、
キャラクタードラマやストーリー展開の激動で誤魔化されてる感じも強い。


もっともこうした、終盤に要素が集まりすぎる悪癖は超星神シリーズ三作に共通した点である。
セイザーXになっても是正できていないというのは少々残念ではある。

序盤でもバーダー艦長と三将軍という関係性がやや気になるところであり、
ブレアードが親も居なくて育った自分たちが~ と言っていたが、どういう経緯でバーダー艦長と行動を共にするようになったのか?
本編を見れば判るとおりバーダー艦長自体ロボのようなコンピューターのような存在だったのだが・・・。
#しかも普段は姿が見えないようになっているため、さらに謎めいている。


あとはコスモカプセルそのものが、先ほども触れたようにセイザーXにとって一方的に有利な存在になっていったことがマイナスに思える。
序盤こそサイクリードがエネルギーを利用して恐獣を作るなどしていたのだが
ネオデスカル側にとっては「歴史を規定路線にするためのアイテム」でしかないものになった。

元々シャークがコスモカプセルも研究・調査していたためセイザーXの武器としても使えるという設定はまあ判らなくもないのだが・・・。


後述することになるが、本作のオチともなるコスモカプセルの扱いも実は疑問が残る。
「それぞれの時代・環境に分散させる」ということだって、よくよく考えたら
「一番新しい時代でなら、環境は別れているとしても全部そろってることになるのでは?」という推察が出来てしまう。
これは、「一番古い時代・環境であればコスモカプセルは事実上一つのみ」というところから類推できる話のはずだ。
このへん、ここ20年近く存在している「世界線」という考え方を援用すればそういうことにならない・・・と言えそうにも思えるが
個人的にはその世界線という考え方自体が疑問なので、ここでは考慮しないことにする。
♯もしこんな世界で俺が生きてれば・・・ というような妄想の産物、と言ってしまえばそれまでな発想にも思えるので。




【特撮は最後の最後で多彩さを発揮】

 超星神シリーズ三作目ということもあってか、特撮パートや合成はだいぶ安定感がある。
しかしただ安定しているだけではなく、可能な限りシチュエーションや描写に変化を加える努力をしているのが窺える。
本作は戦艦から変形・合体するロボット・流星神という特性を生かして
戦艦状態での戦闘やコアロボであるコアブレイバーだけの戦闘をいくつかの回で描いている。

超星神シリーズの巨大戦は戦隊シリーズと違って毎回やらないため、イベント的に差し込める利点があり
当然巨大戦を楽しみたい向きからすればそれはとても楽しみなものであった。
本作では前二作の美点や反省点を踏まえていることがよく判る。
月面での戦いを何度か挟んだり、他の戦艦が援護に回る形をとるなど
特撮面は特に経験のフィードバックが生きている。
川北紘一も最終作という事で、気合を入れなおしたということか。
もっとも、戦艦が敵の攻撃を回避するときの機動がやけにスムーズな点は惜しい。
重量感に乏しいというか・・・。

中破したグレートライオ内部での戦いや、第二話のように巨大戦とヒーローの活動が融合しているシチュエーションが増えているのも特色である。
前二作でもなかったわけではないが、過去の東映作品のように1画面内で奥側に巨大戦
手前下側でヒーローの戦い、という配置で見せるやり方が多かったためやや古臭い印象を今となっては受けるのだが
本作ではそういうカットは減少し、先ほど挙げた回のようにストーリー展開と上手くリンクした演出が試みられている。


合成面においては、やはり手馴れてきていることもあってかおかしいものは無くなっている。
VFX・CG両面でだいぶ進歩も見られている。
グランセイザーから見直すと一番実感できる変化だろう。


また、本作特有の描写としてやたらと戦艦の中破・修理という展開が多い。
五隻とも最低でも一回は中破・修理しており
特に修理の描写を差し込んでいる点が目を引く。
特にグレートライオが中破して以降は三話以上引っ張ることもそう珍しくない。
後半からは修理に時間がかかりすぎることが、ストーリー展開上のアクセントにもなっていた。

これも巨大戦を毎回やらないからこそ出来るストーリー進行であり、文芸側が上手く逆用している好例なんじゃないかと思える。


【殺陣は工夫も見られるものの・・・】

殺陣およびヒーローの演出という部分は前二作から見ると地味に進歩している。
セイザーXだけ見たら、東映のヒーローものと遜色ないんじゃないかと思える程度には見やすくなった。
#これはこれで問題がないこともないが・・・。
本作で初めて導入した「セイザーX!」という、集合名乗りとポーズがさらに戦隊っぽさを醸し出しているがこれも前二作にはないもの。
バイオマンの初期回で見られたようなアオリ構図であったり、流星神三体による名乗りなど、その見せ方は過去の東映作品でやっていたものも取り入れながら
同じものを二度使わないという工夫も行っている
(名乗り自体は本編で三回しかやっていない上に全て違う)

殺陣自体も先ほども言ったように見やすいものが増えた。
前二作では事あるごとに使っていたワイヤーアクションはかなり減っているし、
ギグファイター・デスメードとの多VS多という演出も、グランセイザーから見たら相当見やすく変化している。
第二部終盤での、3組による混戦を描くなど演出面も発奮している印象もある。


しかし本作を見ると、ヒーローの戦いそのものの印象は薄い。
原因はいくらもあるだろうが、第一部では三将軍のほうが活躍が目立っていたし
第二部ではジャッカルやグローザの活動が目立つ。
第三部に至ってはAパートに出て即退場(アルティメット)だったり、そもそもドラマの展開に埋もれて印象が薄くなったり(ディバイダー)と、
東映のヒーロー物と比べてもここまでヒーローと怪人戦の印象が薄いのも不思議である。

もっともこれも、超星神シリーズの特色のひとつと言えなくも無い。
他社作品と比べても怪人との戦いはアッサリ気味だったりするが、これはそもそも本編の作戦展開のほうにウエイトが行っているからであり
基本怪人の行動および特性がそのままその回の作戦になる戦隊や過去の仮面ライダー、
怪人自体もドラマに関わる平成ライダーとは明らかに異なる特色だ。


こうした超星神シリーズの特徴は「レインボーマン」にそのルーツを求められるし
時代を隔てて「サイバーコップ」「ガイファード」にも受け継がれている要素と言ってもいいかもしれない。
そして、これもこれで東宝らしい差別化として個人的には高く評価したい。


【演出面の苦心】

ストーリー面・ドラマ面で強化が著しい本作だが、それが脚本に起因していることはいうまでもない。
だが、それを最終的に映像化する責務を持つ監督の苦労はなみなみならないものがあったろう。

グランセイザーやジャスティライザーではあまり見られなかった「複数のドラマ展開を代わる代わる見せる」演出方法は本作で積極的に試みられている。
特にシャークが合流した第二部以降に顕著である。
第一部でもデスカルとの最終戦直前となった第十一話で、三将軍&宇宙海賊VSセイザーXの戦いの合間に拓人の家族のやりとりが描かれるなどしており
この手法は一見すると戦闘時のテンポが悪いのだが、これはこれでストーリー展開・ドラマ展開の上で効果を挙げていた。

ヒーローものである以上はヒーローものに求められた演出をやるべき・・・
つまり、ヒーローの戦闘シーンはジックリ見せるべきというのはよく判る。
しかし、超星神シリーズに関してはそんなことに拘らずに出来ることをやり切ったとも思える。
勿論作品によってはスベってるものもあるが・・・。
セイザーXについてはストーリーもドラマも内容が詰まっているがゆえの、演出陣の工夫だろう。

グランセイザーとジャスティライザーでよく見かけた1カットが長い&遠景のドラマシーンは
セイザーXでかなり減少しているが、ヒーローものとして以前にテレビドラマとしての冗長さが無くなっておりテンポも生じている。
カットをテンポよくいれてドラマパートの1シーンの冗長さを無くしたわけである。
そして特にジャスティライザーに多かった謎のスローシーンなどはほぼ無くなった。

まあ、それらの戦犯?とも言える村石監督と石井監督が居なくなったからそういうカットが減っただけとも言えるのだが・・・。


あと、本作に至るまで改善されたとは言いがたい部分としては戦闘シーンのロケーションとその見せ方だろうか。
一見すると戦隊シリーズみたいに採石場や岩山、湖、山林などの自然を多用したロケーションが増えたのが本作なのだが
演出の問題なのか、いまいち印象に残らないというかかえって広々としたor狭く感じるような画が目立つ。
先ほど挙げた十一話などはその悪例とも言える。


【グランセイザーのリベンジという趣】

このセイザーX、12個のコスモカプセルを最後に託された12人という分けかたもさることながら
ストーリー面やその展開に至るまで、第一作であるグランセイザーの香りが何処となく強い。
ただし、骨組みから全部グランセイザーそのものを流用しているわけじゃなく
グランセイザーで試みられていた要素をセイザーXで拾い、再構成したというのが適当だろう。

セイザーXのスーツからしてグランセイザーのフォーマットに沿っているし、実は星座がらみの出身星であるセイザーXのメンバーの設定、
巨大戦でも、一度ジャスティライザーで狭まったシチュエーションが本作で再度広がっている部分、
ギグファイターの再登場にガダル星人の登場、最終回での「戦う力の消滅」など。
#最後はジャスティライザーでもある意味そうだったと言えるのだが。

そして、シャークやパトラ、レミーも含めると戦闘に参加した人間は述べ12人+αになるというメンバー構成・・・。
(α はジャッカルなのだが、ロギアと違って最後までシャークの敵として存在していた)
そのうち3人はデスカル三将軍だが、当初は敵対していたものの最後の最後でやっとセイザーXと共闘し、果てはコスモカプセルに見出された「コスモカプセルの戦士」となったこと・・・。
ジャッカルと言えば装着シーンが(振りの途中まで)グランセイザーのようなポーズと演出であることも目を引く。

このセイザーXに無いのは精々国防省くらいなもので、これだけは非常に惜しいといわざるを得ない。
劇場版の存在があるが、あれはパラレルストーリーと言ったほうがいい内容だし・・・。


ただし、セイザーXでオミットされた部分もある。
それは一種オカルト風な要素である。
グランセイザーもジャスティライザーも、よく考えたら科学力で作られた戦士なのにどこかオカルト色が漂っていた。
特にグランセイザーではウォフ・マナフの存在がこの印象を強くさせてしまっていたし
蘭に与えられた「ウォフ・マナフと通信できる巫女の力」という設定もイマイチなところがあった。

だが、セイザーXだけはコスモカプセルの設定が不思議パワーというか、あまり説明がなされておらず
若干オカルト色が強いものの、それ以外は前二作と違って可能な限り科学的な香りを強く打ち出していたことは強調したい。


まあ終盤の、ネオデスカル曰く「闇」というのもなんだかな・・・ とは思うのだが。
グランセイザーは逆に、そうしたネガティブながら曖昧さのある概念を用いていない。
#ウォフ・マナフの幹部でありながら宇宙征服を目論むベルゼウスが典型的悪役として機能していた程度。
東映作品で言えば忍風戦隊ハリケンジャーでジャカンジャが終始拘った「アレ」の正体並みにちょっと・・・と思えるものであり、自分としてはこういうモノはあまり好きではない。


一番グランセイザーとの共通性を感じる部分としては最後の「戦いを止める」という要素。
グランセイザーでは「12人のグランセイザーが、ウォフ・マナフと戦う意思がないことを表明するために装着能力を喪う」というものだったのが
セイザーXでは「コスモカプセルが簡単に揃う環境にならなければいいので、それぞれ持主の手元に残る上でそれぞれの星や時代・環境へ別れることで戦いの可能性を無くす」
「シャークの存在が消滅したので、流星神やセイザーXへの装着能力がなくなる」
というものへと昇華している。
わりと理屈の上でもストーリー的にも納得の行くものへと変容している点に注目されたい。
♯ただし、前述のように疑問が残る形ではある。


グランセイザーと共通したスタッフは、プロデューサー込みで非常に限られているのだが
恐らく数少ない共通のスタッフが意識的に導入しようと林民夫に働きかけたのだろうか。
それとも同氏が自発的に織り交ぜて見せたのだろうか? 妄想は尽きない。


グランセイザーと言えば、本作第一部に登場したギグファイターにガダル星人の再登場(?)。
本作におけるガダル星人は恐らく別個体だろう。 グランセイザーではウォフ・マナフの尖兵というか
ウォフ・マナフとはかかわりがありながらもベルゼウスの意思とは違う動きをしていたのが思い出されるし、グランセイザーに倒されていることを思うとこの推察は間違いでもない。
ギグファイターもガダル星人も、本作の作風に合わせてややコミカル寄りの扱われ方をしているのも印象に残る。



【色々言いましたが】

実は二つほどまとめの言葉がある。 一つは
「未来をテーマに作り上げられた特撮大河ドラマ」というもの。
大河ドラマ、という部分はグランセイザーには部分的に存在していたものだったが、セイザーXでは文芸スタッフの強化に伴い
本格的にこの趣が強くなったことを受けてのもの。

もう一つは・・・
「あらゆる意味で、開き直ったことで発生した奇蹟の産物」
やや悪い意味合いが出てしまっているがけっして悪意は無い。

後者に関しては特に、前二作から追いかけている自分から見ての感想である。
グランセイザーでは、久々のヒーロー物への参入ということで不慣れながら作った結果怪作となってしまった。
ジャスティライザーは、東宝側が露骨に東映を意識しすぎた結果、東映作品のデッドコピーに近いものになってしまっていた。

セイザーXは、その東映への意識は相変わらず残っていたが
セイザーX全体の名乗りなどのベタな要素を終盤取り入れるなど、意識はしているものの割と開き直って導入したものが目立つ。
特にキャラクタードラマをアピールしつつストーリー展開していく作劇は、東映作品・・・ というより連続テレビドラマとしての王道的な作り方を
ようやく取り入れたと言ってもいいだろう。

川北紘一が「特撮魂」で触れた話として
「グランセイザーは人が多すぎる」
「ジャスティライザーは真面目すぎる」 
「セイザーXはコミカルに振った」 とその3作全て、傾向が違う上でそれぞれの前作で周囲や視聴者から言われた欠点をそれぞれに解決しようとした痕跡が窺えるし
特に本作はジャスティライザーの「マジメすぎる」に対する回答とも言える。
そして製作側も迷走の果てに、様々開き直ったように思える。
直球な動物モチーフのデザイン、ドラゴンボール的なマクガフィンに頼った物語、主題歌のベタな雰囲気、幼児向けを意識しすぎて微妙にズレたEDや今日の一言など・・・。


さらにジャスティライザーの時点では東宝側スタッフにもテレがあったのか、プライドがジャマをしたのか
それとも元々発想に乏しかったのか・・・  中途半端に取り入れていたヒーローものらしいケレン味を、セイザーXでは積極的に取り入れていたわけだが
それでも東映作品や同時期の松竹作品と比較してもいまいちケレン味やカタルシスに乏しい点は
良くも悪くも東宝らしい持ち味といってもいい と思っている。


東映ヒーロー作品を見慣れるとところどころ外した部分が多いのが東宝ヒーロー作品。
その集大成とも言える超星神シリーズ最終作の本作は、突然変異と称されることも多いが
よくよく三作全部を見返せばやっぱりグランセイザーやジャスティライザーで試みられたり、
そのまま残された問題点も多い。
願わくば、三作しっかり見返してみていただければ幸いだが・・・。