2015年4月21日火曜日

幻星神ジャスティライザー個人的総評

ここでは、「幻星神ジャスティライザー」全51話を主観でまとめてみることにする。
あくまで個人的な総評である点を断ると同時に、なるべくなら全話を見終えた方の意見も伺いたいところだ。
#最近であればなお良い。



【キャラクタードラマに注力する一方、ストーリーは単純化】

前作「グランセイザー」と比較すると、今作は装着する人物を3人(+1)に絞ったことで
キャラクター描写の面が自然と強化されていくこととなった。
具体的には3人+1の家族・周囲の人々を登場させ可能な限り本編にも登場させることで
彼らの周辺の描写も充実したものとなる。

翔太には伊達電器店の社長である源太郎と社員の健一、そして小さい頃からの友達である徹。
ユカには新聞社に勤める父と母、弟、さらにラクロス部の部員同士でもある理緒と麻美。
真也には幼い頃にある事情で生き別れとなった両親。
神野には姉・ノルンとライザー星では恋人だったというマイア姫。

特に前者二人の友人については終盤まで散発的とはいえ登場。
翔太の人物像としての、友達想いの義理堅い一面が徹を通じて描かれ
ユカについても「普通の女の子として暮らしたい」という、ジャスティライザーとしての現実と
普通の女子高生としての現実の狭間で揺れ動く少女という描写に一役買っている。

真也は両親との和解を見る二十話以降でキャラクターが徐々に軟化している点も描写されており
神野についても、ジャスティライザーと共闘しだしてから同様の変化が見受けられる。
地道に、心情の変化を描いていることは前作には見られなかった進歩と言っていい。

若さゆえに直情径行なところが強い翔太だが、若さ特有のバカっぽさ・軽さもあり
単なる熱血漢としては描かれていない。
しかし他者に対する思いやりを持ち続けていたことも忘れられない。
「困った人が居たら放っておけないでしょ?」とユカに言ったとおりである。

ユカは、中盤のシロガネの力について悩む描写や普通の生活へ戻りたいと願う繊細さと、
その一方で終盤では、自分を置いて戦いに赴く翔太と合流するなどの胆の据わった一面もあり
どれもユカらしいパーソナリティと言える。
度々書くが、理緒と麻美がよく現われることを考えると、ユカこそがジャスティライザーの中で
一番の「日常を体現した人物」ではないかと思う。

そして真也は、源太郎との交流や両親との和解、相思相愛となる澪などを経て
初期の近寄りがたい側面は緩和され、シビアな性格の面だけが残ったあたりは
描写の面でも納得のいく形での変化だろう。
元々描かれていた分析家という部分も最後までしっかり残っていたのもポイントは高い。


澪と麗香の二人もまた、全話を通じてその関係性の変化がじっくり描かれていく。
とりわけ澪は、自身がシロガネへ変化するための重要な存在として認識されてからは
当人も「私も皆と一緒に戦いたい」と、可能な限りジャスティライザーたちと共に居ようとする発言が増える。
最初は「預言を伝えるだけの、ただのお姫様ポジション」だったのだが
ジャスティパワーの放出を経て十九話で真也に「自分の力で生きようとしない人間に地球が力をかすわけがない」と言われた以降は
真也との距離が急速に縮まっていくのと同時に、自分もまたジャスティライザーと一緒に戦う戦士という自覚が備わっていった。

麗香は最後まで近習としての立場を崩さなかった上に、神野に関しては終盤まで怪しむなど
あくまで澪を護衛する立場としての行動が目立つ。
人物描写については迷走著しい彼女だったが、澪の近習という立場だけは首尾一貫。
だがそれも終盤で、国防省からは護衛リストから外れて(=ジャスティライザー関係の重要人物として見做されていない)しまったあたりで揺らぎが生じる。
もっともそれ以降はクロガネ登場のフリになってしまっており、いささか最後まで麗香自身がワリを食っている気はするが・・・。
三十七話での澪との会話で、ほぼ実質彼女の出番は終わったに等しいところもなくもない。


神野は、本作においてはもっともドラマティックな身の上にある人物である。
滅ぼされたライザー星の騎士リゲルであるが、恋人でもあった(らしい)マイア姫を殺されてしまった上に
ハデスに操られてしまいジャスティライザーと戦うことになる。
ダルガ編においては、ミラとの出会いによって己の記憶を徐々に取り戻していき
さらには翔太たちとの交流の中で、自分も何時しか滅んだライザー星の復興を夢見るようになる。

十八話からの登場だが、神野自身の謎が提示されていくのは二十七話からで
それから考えるとほぼ半年をかけて神野の人物が描かれていたわけだが、
恐らく超星神シリーズ中一番ヒーローものの主人公らしい人物像を持ったキャラクターではなかろうか。


このように、キャラクター面および個々のドラマ面においてはかなり充実したのがジャスティライザーだ。
もっともその代償?としてストーリーはグランセイザーの複雑さから一気に判りやすいものに変化したせいで薄味になっているのがネック。
ダルガ編からは若干ストーリー上の注目するべき要素も増えたのだが
このへんはグランセイザーと同じ難点を引きずってしまったように思う。

なによりそれまでボスと思われていたカイザーハデスが中盤で退場し、魔神ダルガへバトンタッチしたのが痛い。
いくら兄弟という設定といえどもボスを途中から出てきたキャラクターに変えてしまうのは失策だろう。
「愚かな弟」と言うあたりから、別に共闘していたわけでもなくむしろ反目しあっていたようにも見えるこの二人
そのせいもあってか見ているほうもダルガを倒さなくてはいけないボスとして改めて認識しなおせるかといえば疑問符が付く。
グランセイザー終盤で突如現われたベルゼウスを、ボスとして見做せる人は皆無だろうし
ダルガもまた二の轍を踏んだキャラクターと言えよう。

ただしこの問題、次作のセイザーXまで(まだ納得できる設定とはいえ)踏襲してしまったために
本シリーズの致命的な欠点が今作で完成してしまったと言えるのがまた辛いが。


【父親・源太郎】

本作のドラマ上で、影の功労者ともいえそうな存在が翔太の父・源太郎だ。
翔太たちがジャスティライザーであることを知ることとなるのは十三話から。
ここからは伊達電器店バックヤードを一同に解放し、可能な限り前に出過ぎない程度に
一同を案じてみたり、精神的なフォローへ回ってみたりと源太郎絡みのジャスティライザーのドラマは地味に多い。

従来のヒーロー物であれば、ヒーローの拠点となる住居なり店を貸すなどで協力する一般人というのはそう珍しくもないが
家族となると、やや趣も異なってくる。
過去においてこのパターンの場合、親が科学者でその科学力で作ったものを子供に使わせるか
あるいは親子ヒーローというパターンも見受けられる。
本作はそのどちらも採らず、ジャスティライザーのたむろっているバックヤードを提供するか
澪や麗香に店番を頼むなど、逆に仕事を手伝わせる描写もある。

ヒーローの日常以上に、ごく一般の日常の描写を可能な限り多くしている点が目を引くところだ。
源太郎自身もまた、ゾラ編以外はさほどジャスティライザー側に深入りしないようにしており、
それはバックヤードのドア越しに会話を盗み聞きして一同を案じる源太郎に強く現われている。
勿論バカ話をしたり遊ぶときは健一を含めて一緒になってはしゃぐし、
空気が重いときなどに、一息付けよとばかりに(過剰に明るく振舞って)大福などを振舞ったり
ヒーローの世界と日常の世界の切り替えをそれとなく受け持っているような人物でもある。
伊達電器店自体が、「ヒーローとしての彼らが日常から切り替わる」ための帰るべき場所にもなっている。

真也やユカ、澪に対しても人生の先輩として、または翔太の父親として相談に乗ったり諭したりもすれば、
二十話における真也との関わりのように逆にぶつかっていく壁の役目だって果たす。
もちろん息子である翔太に対してもそれらの役割は変わらない。
ジャスティライザー自体がまだ若い少年少女と青年であるせいか、源太郎には
「ヒーローの精神的支柱」のような立場が徹底されている。


源太郎が発した「迷ったら一歩前に踏み出してみろ」という言葉は、第一話から形を変え、または言う人間が変わるなどして出てくるものだが
それらは全て大人たちから発せられており、一種若いヒーローを見守る大人のドラマといえる要素もたたえている。
その象徴が、源太郎だ。
ジャスティライザーや翔太の身を案じて神頼みしたり、終盤でも一同が帰ってくる場所を守るために伊達電器店に居残るなど
最後までその役割はブレていなかった
「ヒーローとしての彼らが、日常へ帰るための場所」でもある伊達電器店を守る。
それだって立派な、しかし簡単には出来ない仕事なのだから。

無論そこには、いつもバカバカしいことを言ったりやったりしている健一の存在も忘れられない。
終盤なぜか「ハニー」が出来るとまでは思わなかったが・・・。
こうした一面(カップリング)もまた、本作を構成するピースだ。


【ヒーローたちの目的意識がフラついている】

と、キャラクターたち個々にスポットライトを当てると、それなりに評価できる点は見出せるが
実際の本編での、ヒーローとしての軌跡を見てみると・・・。

最初は三人、それぞれにジャスティライザーとして戦う目的や使命について(主にユカが)悩んだりしていたが大体の目的はカイザーハデス打倒という線で固まってはいた。
しかし、澪の意見を受ける形で一度目的に揺らぎが生じていた。
「ハデスを封印しなおせば、被害は最小限に済むはず」というのがそれだが
これは第二十六話あたりまで言及されるものの、今度はシロガネの力に対してそれぞれに悩む
ジャスティライザーたちが描かれていくようになる。

この当時(2000年代前半)のヒーローものにありがちだった「戦う目的」「ヒーローとしての力」への懊悩を、一応ジャスティライザーでも扱っているのが判る。
ハデスを再封印しなおそうという考えは悪くはないのだが、割合早い段階で放棄されてしまう。
もっともその次にシロガネの力の扱いについての問題提起が描かれるが、これもハデスとの最終決戦あたりで忘れ去られたものだ。

この後のダルガ編を考慮しないで考えても、こうも目的がブレる描写を入れてしまうのは拙い。
何せ澪自身がその再封印に関して何一つ有効な手段を持たず、また考えようとしていない。
これは十九話で真也に叱責されているところからも伺えるが、そのまま二十六話あたりまで引きずってしまっているのもよくない。

シロガネを澪は「力に頼らない新しい正義の誕生」と、二十六話で評していたのだが
実際は「三人でも倒せないような敵に対する切り札的力」と化してしまっており
それは、ダルガ編へ入ってから何の躊躇も無くシロガネになっていくジャスティライザーたちを見ても明らかであるし
そこではまた入院する澪が描かれているのに、翔太たちが大して気にしていないところにも伺える。

#まあ、封印という部分が蔑ろになったのはヒーローものなんだからしょうがない部分もあるんだが・・・。
#ジュウレンジャーやカクレンジャーはよくその結末へ導けたな、と感心してしまう。


どうも澪の存在自体がヒーロー物のキャラクターとしては邪魔でしかない。
本当の意味で「聞こえのいい事を言っている」ようにしか見えないのだ。
これならまだ自分が持った力や運命などに対してウジウジ悩んでいるほうがよほど視聴者の目も引けるというものだが・・・。
中途半端に意思のある発言を繰り返すせいで、澪自身の印象は悪い。
キャラクターとしては先ほど一応褒めてはみたものの、役割的な部分においてはやっぱりストーリー上の足かせになっている感も強く、自分としてはあまり好きなキャラではない。

当のジャスティライザー側も澪につられてハデスを倒す決意が一瞬鈍ったり
シロガネの力について悩んでしまうせいで、バッカス編(ハデス編)については視聴者側も
戸惑ってしまう描写が見受けられたのは汚点だろう。
封印にしろ、シロガネについて悩むにしろ、うまくストーリー上・ドラマ上で昇華できないのなら言わなければ良かったということだ。


【敵の存在感の、悲しいまでの薄さ】

本編レビューなどでも散々否定してきた「ボスが途中で変わる」というのもあるが
それ以前にカイザーハデスの部下であるドクターゾラからしていまいち印象が薄い。
封印を解くために地球へやってきた、と言うわりにはいささか心もとない軍勢であったのが第一だろう。

よく考えてみて欲しい。 カイザーハデス自身450年前に封印されているのだが
その間ゾラは何をしていたのか?という部分の説明がない。
さらにハデスを復活させなくてはいけないという裏づけが無いので、見ている側も
ジャスティライザーと戦うハデス軍というストーリーに没入しにくいのだ。
せめてゾラも封印されていて、何かしらのきっかけでそれが解けたがハデスが封印されたままなので
ハデスの封印を解こうという流れならもうちょっと目を引けたのだが・・・。

もっとも、ハデス封印のアイテムであるステラプレートからしていまいち視聴者からして訴求するものが無さすぎる。
「どうせこれ全部壊されちゃうんでしょ?」という予想と
「一枚でも守り通せば封印できちゃうじゃん」という疑問についてスタッフたちは何も考えていないのが、本編を見ているとよく判る。
なんの意外性もなかった(強いて言えばゾラ編終盤、突如プレートを持ち出してきた源太郎)せいで
ハデス復活そのものもまるっきりインパクトのない出来事となってしまった。


全話見た上での妄想として
「ハデスが封印されてからはダルガ軍の下位部隊としてゾラとバッカスが居て、いよいよ地球侵攻を目指すダルガ軍への協力のためにゾラを仕向けてハデスを復活させようとした」
というものも考えられるが、ハデス側からのダルガへの言及がないことに加え、
ダルガ自身も大してハデスに関心をよせていないため、意味のない妄想である。

とはいえ、前作グランセイザーと比べれば相当マシな部分もある。
カイザーハデスが封印されていることが、一つのストーリーラインとして強く働いており
これの封印解除を目論むゾラというのが、ゾラ編のストーリーである。
その結果は、中間総評に感想を書いたので繰り返したくは無いが、
少なくともグランセイザーにはないボスへの意味づけや説得力の強化という意味では問題ないと思える。

せめてグランセイザーの構成の時点でこれが出来ていたなら・・・とは思う。
とはいえグランセイザーと同じミスを、魔神ダルガという存在が繰り返させてしまうことになるが。


たとえ兄弟といえどもポッと出の敵であることに変わりは無い。
前作ベルゼウスに見られたいまいち印象が薄い難点をそのままダルガも引き継いでしまっているのだ。
途中でライザーパワーを吸収してクロガネになったのは、ストーリー上の起伏と言う意味では悪いものでもないはずだが
これをダルガがやっているという点が最後までどうしても違和感として残ってしまった。
当時のスタッフ的に、ハデスじゃダメだった理由があったのだろうか?


ボスの印象が薄いのはそのまま部下にも影響する。
前述のゾラは言うまでもなく、ゼネラルバッカスは封印解除後の部下となったが
これ自身に地球破壊計画を指揮させていないため、なんだか「ジャスティライザーと戦うための敵」以上の意味づけがないのが厳しい。
ハデス本人も、ジャスティパワーを得たいのかジャスティパワーの源たる地球を破壊したいのかで
短期間の間にブレまくっていたのも問題ではある。
ハデス当人の印象の悪さが、バッカス撃破後の地球破壊作戦によく現われている。

ダルガは論外としても、その部下アドロクスもオカマキャラにして濃い味付けにしなきゃならないほどに印象を無理やりつけなきゃいけなくなったのも哀れだ。
そしてバッカスとアドロクス、そろいも揃って狡いキャラクターとなったのも痛い。
ゾラはまだマシだとしても。

ゾラにはハデス復活というテーマがあったが
バッカスはただのジャスティライザー撃破のための部隊というテーマしか与えられておらず
アドロクスは、ジャスティクリスタルとライザーストーン奪取というテーマこそあったものの
終盤のせわしなさになんとなく流されてしまったのはなんとも言えない。


主人公の描写にウェイトを置き過ぎたあまりに、肝心の対立相手である敵側をおろそかにしてしまった。
これは本シリーズ、特にジャスティライザーに顕著な欠点だ。


【国防省という存在】

前作グランセイザーではストーリー上大きな貢献をしていたといっても過言ではない国防省。
一応、前作と世界は地続きである本作にも登場するのだが本格的に現われるのは四十四話。
#第一話から防衛部隊そのものは出ているけど人物が出てくるのはだいぶ後という意味。

国防省の人物である九条は最終盤まで登場するが、話数としては5話程度。
その飄々とした人物像は、遅くに出すにはあまりに惜しいキャラだった。
ゾラ編からでも、ジャスティライザーと絡ませないにしても登場させても良かったんじゃないかと思うが
なんとなしに無理やりねじ込んだようにも見える。

前作からのゲスト(洸・未加・直人)の流れで出したのか?とも思うが
防衛部隊は一話から散発的に出ていたし、九条と白河は新規のキャラだしで
仮に前作ファンへのサービスとして考えるにしてもちょっとチグハグではある。
#直人以外の前作ゲストも含む。
なんとなく出したというイメージを持たせてしまったのは、スタッフ側のミスなんじゃないだろうか。
ゾラ編はムリでも一番テーマの薄いバッカス編から出すべきだったんじゃないか?
そうしたら九条にも白河にも積み重ねが出来る余地が生じたと思う。


この国防省の影の薄さは、次作セイザーXにおいてより加速(劇場版にしか出てこない)することとなる。
「ヒーローと共に地球防衛の矢面に立つ国防省」という存在は、他社作品では見られない、
しかし東宝特撮作品らしいミリタリズムとSF的空気を纏っただけに、非常に惜しい存在だ。

・・・まあもっとも、ウルトラシリーズの一部作品でも似たようなことはしていたのだが。


【ジャスティライザー、だからジャスティパワーとライザーパワー】

安直にもほどがある。
劇中後半から度々登場人物が語っていた「地球とライザー星は兄弟星」
「地球にはジャスティパワー、ライザー星にはライザーパワーがあり、これが宇宙の平和と秩序を保っている」
という話だが、これだって判断の付く年齢の視聴者からしたら突っ込み所もあろう。

じゃあ「ジャスティライザー」って存在はなんなの? と言われても仕方ない。
ジャスティパワーとライザーパワーの両方を司る戦士だから「ジャスティライザー」ならまあ判るんだが
実際は別々の力(地球の力の戦士だからジャスティライザー)であった。
もっと言えば「なんで地球なのにジャスティパワーなの?ライザー星だからライザーパワーは判るけど」と突っ込まれるのも明白。
せめて作中限定の話として「ライザー星から見たら地球はジャスティ星という名前の星です」くらい
ノルンやミラなどに言わせたって良かったはずだが。

どうも本作は、前作グランセイザーでも見られた設定の雑さをさらに酷くしてしまっている感がある。
ジャスティライザーという名前に合わせて意味づけをしようとしている痕跡もないし。
世界観というか物語上の設定を作ることすら放棄しているように見える。

「ライザー星という名前をやめて他の名前を付ける。それに伴ってライザーパワーの名前も変える」
「自分の正体に目覚めた神野が、地球でジャスティパワーを受けて他の力に覚醒する」
これだけでもまだ、見ているほうにはしっくりきそうなものなのだが。
兄弟星という設定を外すと、ノルンが地球を守る意味がなくなるから残すとしても・・・。


とはいえこれだけではネーミング上の突っ込みで終わりそうなので、一応要素としてのジャスティパワーとライザーパワーを取り上げると・・・。

両方とも、特に終盤の物語を終わりに導くためのアイテム・・・ デウス・エクス・マキナとでも言うのだろうか?
これに成り下がっている感じが否めない。
ハデス編決着の中間総評にてシロガネ評の中で「ダイノガッツとは違う」とは書いたが、
実際はよりタチが悪いというか、終盤の扱いだけでその存在意義はダイノガッツ以下となってしまっている。

ジャスティパワーとライザーパワー自体も、その星にある固有の力とは言われるものの
これが「全宇宙の秩序と平和を保つもの」と、他社作品ですらやらなかった大袈裟な設定を付与したこともさることながら
何故その二つの星だけでそんな力が?という説明も全く無い。
なんだかよく判らないがすげー力! 程度の印象で終わるのならそんな仰々しい設定は要らない。
これにつりあいを持たせるなら、ハデスやダルガにもそれに匹敵するほどの設定が必要なはずなのだが・・・。

実際の運用も、ジャスティパワーについては澪自身の命を守ったり
最終シリーズのように矢継ぎ早に様々な効果が発現してしまうなどして
ストーリー展開上都合のいい道具にしかなっていない点が、印象を悪くしている。
ドラマ上では十九話みたいに、都合よくジャスティパワーをアテにするなという警句があるなどいい使われ方もしているにも関わらず、
最終シリーズではそんな硬い作りすら捨て去ってしまうあたりに当時のスタッフの限界が見て取れる。


【特撮・アクション面は様々の反省のもと・・・】

本作ジャスティライザーからは、巨大戦の頻度が若干増えている。
それが影響してか、そのシチュエーションは若干絞られ気味にはなった。
山間部、市街地、港。
前作にあった砂漠や岩肌の見える山などというものは見られなくなっていった。

こうしてみると戦隊シリーズと一見変わらなくなったようにも思うし事実はそうだが、
それでも回ごとのミニチュアセットに可能な限り別の建物を組みなおすことで、同じ市街地でも違う地域で戦っていることを印象づけるなどしており
省力化しながらも、限られたシチュエーションの中での拡張性を持たせていることが伺える。
故・大澤哲三氏による拘りなのか、それとも川北紘一が生前拘って見せた部分なのかは判らないが。

しかしこれも、グランセイザーまでは見られた迫力あるダメージ描写という点もオミットされてしまう結果となった。
グランセイザー第一クールのような、ド迫力の戦闘シーンは無くなった。
ウルトラシリーズですら見ないような見事なやられっぷりを見せてくれていただけに、こうした部分でも
他社作品と変わらないものになりつつあったのは、やはり寂しいものがある。


アクション面だが、こちらはグランセイザーの反省もあってかスッキリと見やすいものになった。
へんなところで寄りになったり、逆に引きのカメラになるということも少なくなっていた。
とはいえ、まだ本作第二クールまでは無駄なスローのカットが入るなど
新しいことを取り入れようとしてかえってテンポを悪くした演出が見られるが・・・。

そして第三クール以降、スローなどの無駄な要素が無くなっていった代わりにコミカルな殺陣が
またもテンポを殺ぐ結果となったのがいただけない。
幾たびも指摘している「金的」や「文字通り頭を使った戦い」などがこれである。
ヒーローのカッコイイ戦いを見たいのに、何故そうしたギャグアクションを入れてしまうのか
というか現場で誰も止める人間が居なかったのだろうか?
特に金的は、終盤に至るまで何度も出てきており食傷してしまった。

流石にセイザーXでは(一部回以外では)見られなくなったアクションではあるため、ジャスティライザーの印象が薄かったり悪かったりする一因を担っているとしか思えないものであった。


ザコールの昔の戦隊みたいなフォーメーション的殺陣(これは初期に目立った)や
ジャスティライザー側の殺陣の見せ方など、確実に前作よりは向上している面もあるだけに惜しい。
また敵怪人といえるサイバーナイト、デストコマンド、レジェンダーたちもそれぞれに特殊能力をアピールできており
うまいこと他社作品で見られたものでもいいところはちゃんと取り入れているところは感心できる点だ。
サイバーナイト・ラジメウスやレジェンダー・ギャメレオン、デストコマンド・ダンハウザーなどはそのギミック込みで悪くないんじゃないだろうかと思える。


【バンクの本格導入だが・・・】

本作からは、装着時および必殺技、幻星神の合神や出撃シーンなどでバンクを用いることになった。
グランセイザーのレビューでもちらっと触れたが、様々な要因があってこの手法が存在していることを考えると
本来不必要な部分もあるのだが、 ことヒーローものやロボットものとなると
その変身シーンや必殺技、出撃シーンなどをバンクという手法で刷り込むことは存外効果のあるものではある。

#ちなみに、特撮用語として「ライブフィルム」という言葉がバンクに相当するものですが
#やや使い方の意味合いに違いがあったり、オタク界隈で一般的な言葉になっているためあえてバンクで統一させていただきます。


本作では、三人それぞれに名乗りまで含めたバンクが存在しており
また、幻星神にしても実はミニチュア合体版とCG合体版が存在するなど
スタッフ側でも相当の気合をこめて作られていることがよく判るのだが・・・。
実際の運用はと言うと。

装着バンクに関しては二分割・三分割にして可能な限り尺を縮めながら一気に見せる工夫はしている。
それはいいのだが、装着後の名乗りを三人同時に行ったり
一話につき二回装着する回があるときなどは、バンクは一回分のみ(前半か後半かは回によって違う)流すものの
名乗りを二回とも律儀に行うなど、演出のせいでテンポが鈍くなることが多かった。

また合神バンクにしても、最初はミニチュア版も織り交ぜていたのがいつの間にかCG版に統一されるなど
バンク自体も変化を加えるために二種類ほど用意することがあるとはいえ、やや単調さが出てしまった感はある。

装着バンクは特に長ったらしい印象もあったが、これはセイザーXでは若干短くなるなど
まだ試行錯誤は見受けられる。


【色々言いましたが】

ジャスティライザーを総括するならばこうなる。
「等身大の高校生・大学生がヒーローとなることで得られた精神的成長を描いた、平凡なるヒーロー作品」

特に最後の「平凡なる」が、自分にとってのジャスティライザーの全てであった。
これは前作から色々アジャストされて、普通のヒーロー物っぽくなった点も含まれるが
それ以上に「ヒーローやってる学生のドラマと、平凡な日常も過ごしている学生のドラマ」
という部分に注目してのことだ。

翔太は、その人の良さで難しい立場に飛び込みつつも乗り越えていき
ユカも最後まで普通の生活を捨てなかった意思からくる強さを備えるようになり
真也は育ちから来た気難しさなどが一気に緩和され、仲間と戦うことの大切さを三人中一番強く抱くようになっていった。

そして神野も、滅ぼされたライザー星の悲劇の戦士という立ち位置から
最後にはライザー星復興という新しい夢を抱いて再出発を果たすなど、その前途は誰よりも多難ながらも
「かつての日常を取り戻すため」前向きさを持って前進していった。

澪や麗香もそれぞれに新しい夢を抱いて、日常へ戻っていった。


ジャスティライザーをもっと単純に言い表すなら
「日常に始まり日常に終わる物語」だったのかも知れない。
最後まで、伊達電器店社長としての仕事も捨てなかった源太郎が、何よりの証だろう。
そして翔太やユカの友達・・・ 徹に理緒、麻美の三人もまた、彼らヒーローの戻るべき日常として存在し続けていた。


三作の中で一番評価が低いジャスティライザー。
キャラドラマ上では今述べたような「平凡な部分」を強調し過ぎたからかもしれないし
ストーリーもお世辞にも褒められるものではなかった。
でも、改めて見返した結果やっぱり地味だったものの、最後まで捨てなかったテーマを見出せてからは
グッと評価が上がっていった。

自分にとってジャスティライザーはそんな作品だ。